その街の“顔”になり得る存在感を放つお城。土地勘のない観光客にも分かりやすいよう、アクセス方法がバスの場合、どこも最寄のバス停に「○○城前」のような名が付いているかと思いきや、意外とそうでもないらしい。四国の徳島城はどうだろうか!?
文・写真:中山修一
(徳島城周辺そぞろ歩きの写真付き記事はバスマガジンWebもしくはベストカーWebをご覧ください)
■阿波国17万6千石の名城
四国の徳島県徳島市のやや北東寄りにある徳島城は、阿波国17万6千石の領主だった蜂須賀家政によって、1585年に築城が始まり、翌1586年に完成したと伝えられる。
何本もの河川が流れる河口付近という立地を活かし、北側を助任(すけとう)川、南側を寺島川に囲まれる形で設計されていたのが特徴の一つ。本丸は標高約61mの山の上に建てられていた。
築城当初には天守があったようだが1620年代に取り壊され、代わりに天守相当のシンボルである3階建ての櫓が作られたとされる。
江戸時代には徳島藩蜂須賀氏25万石の居城として長きにわたって幕末まで使われ、明治初期に施行された廃城令によって、1875年には殆どの建物が解体されてしまった。
現在は公園になっており、石垣とお堀が往時の面影を残すほか、1945年の空襲まで唯一姿を留めていた「鷲の門」が、1989年に復元されて、城跡の表玄関的な役割を担っている。
■一番目立つスポットが最寄に
前回、新潟県の長岡城址の様子を見に行って、駅前が城跡という立地条件に大変驚きつつ、案の定名前が「長岡城前」のバス停もなかった。
一方で今回の徳島城もそれに近い気配を感じる。まず城の南側に面していた寺島川が現在は埋め立てられて、川だった箇所をトレースするように、JR高徳線の線路と車庫・さらに牟岐線の線路が通っている。
車庫の隣には徳島駅があるため、そこが徳島城址への最寄駅でもある。駅から城までは歩いて10分といったところ。
JRの駅前にも当然バス停はあるが、駅という強力なランドマークがある中で、わざわざ「徳島城前」にするとはまず考えられず、言わずもがな正確なバス停名は「徳島駅前」だ。
城の北側に面する助任川は現在も流れており、川と城の間にクルマが通れる道はない。南側は前述の通りビッシリ線路なので、城の近くにバス停があるとすれば、西側と東側を通る道路上だけ、ということになる。
■バス停を求めて歩いてみると
いつものように、城跡の周辺を歩いてバス停を探し、見つかったバス停の名前を確認していくスタイルで、炎天下にそぞろ歩きを決め込んだ。そんな日に後でコーラ飲むとうまいんだよな……。
まずは東側から。城跡の玄関口と言える、復元された鷲の門の方へ行ってみると、すぐ手前を通る道路上にバス停標識が置かれていた。
玄関口にすごく近い、ということで「○○城前」への期待がちょっと沸いた。そそくさと確認してみると、鷲の門の前の停留所は、徳島バスと徳島市営バスが停まる「徳島中央公園・鷲の門前」であった。
バス停から目視できる位置に門が建っているのと、徳島城址の現在の主な役割は公園ということで、その名前が付けられている模様。
素直なネーミングと言えそうだが、あくまで実用面重視で、象徴としてだけ残る施設である「城」の前とは言わないのがミソか。
■もう無さそうだけど……
城跡の表玄関に一番近いバス停が「○○城前」ではない故、他にバス停があっても城前の確率はゼロに近い気がしなくもないが、一応念のため、もう少しお堀沿いを歩いてみた。
そうすると、お堀を過ぎた少し先に一箇所、上に円い板の付いた、いかにもなバス停を見つけた。こちらの名前はどうかと目を凝らせば、徳島市営バスの「公園北口」であった。
「徳島中央公園・鷲の門前」、「公園北口」のほか、東側の道路には少々オフセットした場所にバス停を確認できたが、どうやら城に直接関連する名前のバス停はないようだ。
■ちょっと離れる西側
西側を通る道路(徳島県道30号線)と城跡の山の間には、小学校や武道館・体育館の敷地を挟むため、城跡からは割と離れてしまう。とはいえ、せっかく徳島まで来たので、この期に及んで「城前」はないだろうけれど見るだけ見ていくことにした。
ちょうど体育館の前に、縦長の角形バス停が立っているのに気づいて近づくと、さすが現役の実用施設である体育館の前だけに「体育館前」と、そのままの名称が付いていた。こちらは徳島バスの停留所だ。
徳島城の場合も、周辺に「○○城前」と名乗るバス停は1箇所もない、という結果であった。依然ヒット率は低いままの「○○城前」、次はどの城に行ってみるかな。
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