数多くのヒットモデルを世に送り出してきた有名カーデザイナー。しかし、そんな彼らにだって不発に終わった作品はある。今回はそんな有名デザイナーが手がけながらも販売成績がいまひとつだった国産車を紹介する。

文/長谷川 敦、写真/日産、NewspressUK、CarsWp.com

■有名カーデザイナーとはどういう人たち?

世界の巨匠が手がけたのに…なぜか日本ではイマイチだった[珠玉車]たち
デザイン図を描く若き日のジョルジェット・ジウジアーロ。数多くの名車をデザインした人物で、いすゞ 117クーペや初代フォルクスワーゲン ゴルフも彼の作品

 近年はあらゆる分野で分業化が進み、特に工業製品においてそれを作り出した個人に注目が集まることが少なくなっている。

 それは自動車も同じであり、開発チーフとなる人間はいるものの、基本的にクルマは“チーム”の作品として扱われる。

 だが、20世紀にはクルマ全体のデザインをひとりで考え、それを具現化するカーデザイナーが存在していた。

 もちろん、ひとりの人間がクルマを構成するすべてのパーツを設計するわけではないが、現在よりははるかに大きな責任を負い、完成したクルマにはそのデザイナーの個性が強烈に反映されていた。

 これから登場するクルマたちも、有名デザイナーが大きく関わったものである。

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■巨匠の作風が強く出すぎた?

●ジョヴァンニ・ミケロッティ/日野 コンテッサ(2代目)

 1930年代からカーデザイナーとしての活動を始め、1949年には自身のスタジオを設立したイタリアのジョヴァンニ・ミケロッティ。

 そのミケロッティがデザインしたのが1964年発売の2代目日野 コンテッサだ。

 2代目コンテッサにはセダンとクーペの2タイプがラインナップされていたが、そのどちらもミケロッティ特有の優美なラインが強調され、デザイン面での評価は高かった。

 しかし、コンテッサにはリアエンジンレイアウト(RR)という弱点があった。

 当時のセダン&クーペモデルの主流はフロントエンジンに以降しつつあり、冷却面などでの不利もあるRRの人気は思わしくなく、販売成績は低迷。

 コンテッサは後継モデルを残すことなく1967年にシリーズの歴史を終えている。

●ジョルジェット・ジウジアーロ/スバル アルシオーネSVX

 1955年にキャリアをスタートし、デザインスタジオのベルトーネで経験を積んだ後に独立したイタリアのジョルジェット・ジウジアーロ。

 ベルトーネ時代から頭角を現していたジウジアーロの作品は多数あり、世界で最も有名なカーデザイナーのひとりに数えられている。

 日本車のデザインも多数手がけていているが、今回紹介するのはスバルが1991年に発売したアルシオーネSVXだ。

 車名こそ先代のアルシオーネを継承するものの、このSVXは事実上の完全新設計モデルであり、日本国外ではSVXのみの名称で販売された。

 アルシオーネSVXで特徴的なのがウィンドウのデザインで、ルーフまで回り込む形状が独創的だった。

 このデザインは好評だったが、発売のタイミングが日本のバブル景気崩壊とほぼ同じになってしまい、その影響もあってセールスは伸びず、結局1996年に生産を終了。

 アルシオーネSVXはシリーズ最後のモデルとなってしまったが、これはクルマの出来が悪かったからではなく、その意味では悲運のモデルともいえる。

●ピニンファリーナ/日産 ブルーバード(2代目)

 イタリアのデザインスタジオ(カロッツェリア)のピニンファリーナは、1930年にバッティスタ・ファリーナによって設立された。

 以降はバッティスタをはじめとする多くのデザイナーがこのスタジオに所属し、ここでデザインされたクルマは個人ではなくスタジオの作品になる。

 そのピニンファリーナがデザインを担当したのが1963年登場の2代目日産(当時はダットサンブランドで販売)ブルーバード。

 デビュー時にラインナップされていたのは2&4ドアモデルで、後にエステートワゴンが追加されるが、2&4ドアモデルはテール部分が低くなる独特な形状をしていた。

 このフォルムが日本ではウケず、販売成績は期待されたものではなかった。

 そこでメーカーでは1966年のマイナーチェンジで最大の特徴だったテールを一般的なスタイルに改めている。

 2代目ブルーバードは、巨匠の個性が必ずしもセールスにつながるわけではないことを証明してしまった。

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■手堅いデザインゆえか、地味な存在に終わったモデル

イタリアのエルコーレ・スパーダがデザインした日産 ミストラル。1990年代のSUVとしてはごくオーソドックスなスタイルであり、まとまりの良さを感じる

●エルコーレ・スパーダ/日産 ミストラル

 スペインの日産系工場で製造され、欧州市場をメインターゲットにしていたのが1993年にリリースされたSUVの日産 テラノII。

 このテラノIIを日本向けにアレンジして、日産が輸入するかたちで1994年から販売したのだが、日本国内での車名はミストラルに変更されている。

 ミストラルのデザインを担当したのがイタリアのデザインスタジオI.DE.A(イデア)のエルコーレ・スパーダだ。

 スパーダは1960年代からカーデザイナーとして活躍している人物で、ミストラルは彼がI.DE.Aに所属していた時の作品。

 写真を見ればわかるように、ミストラルのデザインには奇をてらったものではなく、非常に堅実にまとめられている。

 実用性を重視するSUVとしてはこれで正解なのだが、日本国内での注目度はそこまで大きくなく、1998年には日本向けの生産が終了している。

 有名デザイナーが関わっているのであれば、もう少し見た目にも独自性が欲しかったところか。

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■インパクトは抜群なのに販売成績は残念

●アンドレアス・ザパティナス/スバルR1、R2

 2000年代初頭のスバル車に採用されていたのが「スプレッドウイング」と呼ばれる特徴的なグリルデザイン。

 このデザインを考案したのがギリシャ出身のアンドレアス・ザパティナスといわれている。

 フィアットやBMWでデザインを手がけたザパティナスは2002年に富士重工(現スバル)に加わり、ここでスプレッドウイングをデザインした。

 最初はコンセプトカーに用いられたスプレッドウイングは、2003年発売の軽自動車・R2に採用され、続く2004年リリースのR1もスプレッドウインググリルを持っていた。

 新たなスバルの顔として期待されたスプレッドウインググリルだったが、評判は芳しくなく、R1、R2ともに販売数は低調だった。

 そこでR2は2005年のマイナーチェンジでスプレッドウイングではないグリルのモデルも販売されたが状況は好転せず、R1&R2は2010年に製造販売が終了した。

 美醜の判断は人それぞれであり、有名デザイナーがデザインしたクルマが必ずしも成功するわけではない。

 だからといって有名デザイナーの残した業績が偉大なものであるのは間違いなく、今後も語り継がれる価値はある。

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