全国から老若男女が集う文学の学び舎「大阪文学学校」(通称・文校、大阪市中央区)が今年、創立70周年を迎えた。戦後復興期の昭和29年、働く若者らの文学活動の場として誕生し、田辺聖子さんや玄月(げんげつ)さん、朝井まかてさんら芥川賞、直木賞作家を輩出し、ほかの文学賞の受賞も相次いでいる。修了生は延べ1万3500人。70年を迎えた現在も、在籍する高校生から90代までの400人が小説や詩、エッセーの文学修業に励んでいる。
実作主義貫く
3月16日、「大阪文学学校創立70周年記念祭」が大阪市内で開かれた。平成18年に夜間部の小説クラスに在籍した朝井さんが、「小説を書くという人生」と題して講演。20年に小説現代長編新人賞奨励賞を受賞しデビュー、26年に『恋歌』で直木賞に輝いた朝井さんだが、「10年通って1作も書けなかったら、小説を諦めよう」と決めて文校の門をたたいた。
「小説執筆の技法を教える学校だと思われることが多いが、私が好きなのは実作主義を貫いているところ。お互いの作品を批評し合う合評が刺激になった。仲間たちの年齢や職業もバラエティーに富んでいて、書く作品も実にさまざまだった」
文校は、昭和29年3月に開かれた前身の「大阪詩の教室」を引き継ぐ形で、同年7月に詩人の小野十三郎を初代校長にスタートした。春と秋に開講し、昼間・夜間・通信教育の3部制で、小説・詩・エッセーなどのクラスがある。現在、400人が在籍し、チューターと呼ばれる30人の講師とともに文学に励む。
学生の作品をクラス全員で批評し合う「合評」は、開校以来続く文校の大きな要。学生委員会が組織され、飲み会や文学散歩、合宿など仲間との交流を深める活動も活発だ。
危機救った修了生の躍進
生徒数のピークは学生運動が盛んだった43年で、600人を数えた。政治の季節は、文学の季節でもあった時代。だが、その後、文学のサブカルチャー化やカルチャーセンターの台頭などもあり生徒が激減し、バブル経済が崩壊した平成3年には200人に落ち込んだ。
通信教育部のスクーリングを地方で活発化させて知名度アップを図るなど改革を進める中、12年に玄月さんが芥川賞、26年に朝井さんが直木賞を受賞するなど、修了生の躍進によって受講生が回復し危機を救ったという。
近年は在校生や修了生、チューターの中から、文学賞の受賞が相次いでいる。
木下昌輝さんが『宇喜多の捨て嫁』などで3回直木賞候補となったほか、藤岡陽子さんが『リラの花咲くけものみち』で吉川英治文学新人賞を受賞。伊豆文学賞やさきがけ文学賞など、地方の文学賞の受賞も目立っている。
文校の魅力は、文学修業だけではない。ノンフィクション『M-1はじめました。』の著者で現在、夜間部の小説クラスに在籍する吉本興業元取締役の谷良一さんは70周年記念祭の壇上に立ち、こう語った。
「吉本興業では文学や小説についてほとんど話したことがなかった。文校に入って仲間と中上健次など文学の話ができるのが一番の喜び」(横山由紀子)
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