太平洋戦争の終結から79年。広島に投下された原爆で家族4人を失った宮崎市の87歳の女性が若い世代への「語り部活動」を続けている。爆心地から1.5キロにあった自宅は爆風で破壊され、母は下半身ががれきの下敷きとなったまま、わが子たちに厳しい口調で「逃げなさい」と言ったという。
原爆で家族4人を失った…
この記事の画像(9枚)広島に原爆が投下されて79年となる8月6日、宮崎市で行われた原爆死没者の慰霊祭。
参列者の1人、宮崎市の中津園子さん(87)も自宅で被爆し、祖父母と母、姉の4人を亡くした。
中津園子さん:
私だけが助かった。それ自体とても苦しいですよね。亡くなった母たちの思いを伝えたい。きっと悔しいと思う。
原爆の記憶
中津さんの手記には、こう記されている。
「自宅は現在残っている原爆ドームから西へ1.5キロの位置にありました。8月6日の朝は雲一つない晴天であったと記憶しています。」
当時8歳だった中津さんは、自宅で母のいかさん、姉の品子さんの3人で、出かけようと準備をしていたその時、原子爆弾が投下され、閃光とともに爆風が襲った。
(中津さんの手記より)
「爆風で2階建ての家は破壊され、気が付いたときは屋根の上に一人立って泣いていました。」
母は下半身ががれきの下敷きとなって逃げられず、4つ年上の姉は姿の見えない場所で泣きながら、助けを求めていた。
火の手が迫る中、駆け付けた次男に助けられ、その場を離れた中津さんは、その時の光景を忘れることができない。
(中津さんの手記より)
「母は、兄に厳しい口調で「園子を連れて逃げなさい」「あなたたちも焼け死んでしまう」。兄は私を背負い、母に別れを告げ、その場を立ち去りました。」
中津園子さん:
人間ならだれでも助かりたい。でも、やっぱり親だなと、「早く逃げなさい」って。
広島の市街地は一瞬にして廃墟と化した。死者は約14万人と推計されている。
夜になり、赤く染まる空を眺めながら、中津さんは兄と2人で涙した。
中津園子さん:
兄と2人逃げたあと、母がどんな思いだったか。姉にどんな言葉をかけてあげたか。
被爆体験を伝える
戦争や原爆への関心が薄れつつあることにもどかしさを感じながら、中津さんは、被爆体験を伝え続けようと、20数年前から「語り部活動」を続けている。
中津園子さん:
これが最後、これが最後と言いながら、きょうまで生かしてもらっている。小さな集まりでもいい。3人、4人でもいい。しっかり聞いてもらえる。皆さんが戦争に関心を持ってほしいと思います。
戦争体験者の生の声はあと何年かで消え去るでしょう。核兵器のない平和な世界が1日も早く訪れることを願い、期待したいと思っています。
慰霊祭の参列者:
昔、体験したことをもとに、何がいけないか、どう防げるかを若い世代が考えていかないといけないと思っていて、忘れちゃいけない。私たち若い世代も、原爆について知って、次の世代に伝えていくことが大事だと思いました。
助けられなかった母と姉。その苦しみや無念と向き合い、生かされたことへの感謝を胸に、中津さんは被爆者としての生の声をこれからも届け続ける。
(テレビ宮崎)
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