かつて日本の林業を支えた「酒井金之助」という人をご存じでしょうか。埼玉県久喜市の酒井重工業久喜合同事務所には、そのイニシャルをつけた小さな機関車が眠っています。同社の前身「酒井工作所」のベストセラー、A型です。ボンネットの先端につけられたSKWの文字は、創業者である酒井氏のイニシャルに、ワークス(工場)のWを足したものだとされています。
福島市出身の酒井氏は大正時代、現在の東京都港区に自らの工場を起こしました。当時、山で切り出した木材を運ぶのに、人力や家畜、川を利用した輸送方法に代わり、蒸気機関車や小さな内燃機関車が使われ始めた頃でした。独立前に勤めた機械製作所で機関車の知識を得ていた酒井氏は、自動車修理業と並行して、自ら全国を飛び回り外国製機関車の修理や運転指導をしていました。
当時小型内燃機関車は輸入に頼っていて、値段の高いことや、納品に時間がかかることが課題になっていました。そこで1927年、車両そのものの製作にも乗り出します。
当初は米国製の機関車などを参考に製造を始めたようです。29年から40年にかけて鋳鉄製の台枠を持つA型、台枠の素材を鋼材とし高床式で見通しのいいC型など小型内燃機関車を次々と開発。39年には「内燃機械製造界の第一人者」(志賀護著「興亜経済人読本」)とまで呼ばれるようになっていました。
しかし、肺の病気におかされ、42年、48歳で亡くなります。
酒井工作所は45年5月、空襲により工場の大半が焼失。戦後は焼け残った部品から再びA型機関車を作り、水平方向に回転する「ボギー台車」を持つF型や、脱着可能な除雪装置を持つS型など、商品開発に力を入れました。林野庁向けとしてはトップのシェアを誇ったといい、社内報には「全林野機関車の半数以上」を占めるまでになったと書かれています。生産台数は戦後の49~67年の間だけでも約600台にのぼったそうです。
中でも主力製品だったのがA型です。今も社内で保存されている5トンタイプは、全長約3.5メートル、幅約1.4メートル、高さ約2メートル。40馬力のディーゼルエンジンを積んでいて、最大けん引重量は45トンでした。ほかにも自重や出力などの違う複数のタイプがあり、保存車両が活躍した長野県南部をはじめ、全国各地で活躍しました。
国有林の森林鉄道は最大時で総延長6000キロを超えましたが、次第にその主役を機動性の高いトラックに譲り、70年代にほぼ幕を閉じます。現在、国有林では鹿児島県の屋久島の安房森林鉄道をのぞき残っていません。酒井工作所は67年、機関車の製造をやめて酒井重工業と名前を変え、同じく主力製品だったロードローラーの生産に注力することになりました。
機関車たちはどうなってしまったのでしょうか。現在の長野県飯田市にあった「遠山森林鉄道」では、地元住民や県内外の鉄道ファン有志の手によって、かつて貯木場だったところに350メートルの線路を敷いて酒井工作所の機関車を動態保存しています。現在はツアーなどでの公開に限られ一般公開はされていませんが、保存活動をしている「夢をつなごう遠山森林鉄道の会」の前沢憲道会長は「いつかは常時動かして、森林公園として山の勉強をできる場所にしたい」と話します。
また、同県王滝村の松原スポーツ公園ではA型だけでも3両が保存され、うち2両が動態保存されています。10月6日に予定されている「林鉄フェス2024」というイベントで動く姿が実際にみられるということです。
このほか、岐阜県下呂市小坂町の温泉施設「ひめしゃがの湯」には2両の酒井工作所製機関車が保存され、うち1両は常に見られる状態で展示されています。
日本の林業を支えたSKWマークの機関車。みなさんもぜひ見に行ってみてください。【写真・文 渡部直樹】
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。