多様な遺物が良好な状態で大量に出土したことから「地下の弥生博物館」と呼ばれる国史跡「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」(鳥取市)。この遺跡から平成12年に出土した109体分(5323点)の人骨群について、人骨の遺伝子(DNA)分析などから、奴隷層など家族関係をもたない人たちの集団埋葬の場ではないかとする仮説を鳥取県の研究者が打ち出した。遺跡からは、やじりが刺さるなど受傷痕のある骨が出土していることから弥生時代の内乱「倭国大乱」と関連付ける評価が定着しているが、被葬者をめぐって一石を投じた形だ。
血縁関係ない都市的固まり
「DNA分析では、109体のうち調査の対象となった32体の中で血縁関係を示す骨は3組しかなかった。これは青谷上寺地遺跡が外部との人的交流が少ない農村ではなく、さまざまな地域から絶えず人が流入を繰り返す都市的な集団であったことを示す」
集団埋葬説を提示した鳥取県立青谷かみじち史跡公園課長補佐の濵田竜彦さん(日本考古学)は、仮説の前提としてDNA分析が明らかにした科学的データを重視。そのうえで、同遺跡から鋳造鉄斧(ちゅうぞうてっぷ)などの「輸入品」、管玉(くだたま)や花弁高坏といった「輸出品」が出土している状況を踏まえ、遺跡が日本海を通じて九州北部や北陸、大陸とつながる交易拠点で、交易品とともに、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記されている当時の奴隷的身分(生口=せいこう、奴婢)の人々も運ばれてきた可能性に言及した。
「出生地の異なる人たちで構成される奴隷層が定期的に供給され、他界後は集団埋葬の対象になっていたとすれば、遺伝的に多様で血縁関係が希薄な集団の成り立ちをより理解しやすい」と推論した。
人骨5323点は遺跡中心域の東側で出土。頭蓋骨をはじめ多様な部位の骨が散乱した状態で埋まっていた。個体数を109としたのは大腿骨からの推計で、実際にはこれより多い可能性もある。平成30年度から令和5年度まではサンプリングした骨を使ってDNA分析が行われ、相互の血縁関係や縄文・渡来系の混血度合いの研究などが進められた。
「倭国大乱」の戦死者
青谷上寺地遺跡の出土人骨を特徴づけているのは、銅鏃(どうぞく)と呼ばれるやじりが突き刺さった骨盤など受傷痕のある骨だ。これらが埋葬されたとみられる時代(2世紀後半)は、魏志倭人伝に記述された時代と一致することから、同書に記された日本の内乱「倭国大乱」と関連付け、出土したのは戦死者の骨とする説が有力視されてきた。
しかし、濵田さんは「骨の中には、離断された頭部に部分的に焼かれた痕が見つかっているものもあり、戦闘行為ではなく刑罰や儀礼に関する死もあったのではないか。受傷痕のある骨は110点、10体分と全体の1割にも満たない」と指摘し、出土人骨を戦死者と短絡的に結びつける説を疑問視する。
また、出土人骨群の中から渡来人が持ち込んだとみられる結核に罹患した骨が複数見つかっており、「外部から多くの人が集う青谷上寺地遺跡には、感染が持ち込まれ拡大しやすい『密』な社会的環境があった」と推定。奴隷層の感染リスクの高さを示唆した。
一方で、支配者層の墓で副葬品として見つかるガラス製玉類が溝跡から出土していることから、社会的な身分とは別の埋葬基準があったとも推測。支配者層であっても、死因によっては集団埋葬の対象となっていたのではないかとみる。また奴隷層の中にも元は支配者層だった人が含まれている可能性もある。
そのうえで濵田さんは、青谷上寺地遺跡から出土した人骨群から導き出される集団像を、「家族関係をつくらない人々」と結論付けた。
被支配者層の墓はどこに
仮説の発想の原点は、以前に勤務した、同じ弥生時代の妻木晩田(むきばんだ)遺跡(鳥取県米子市など)で抱いた疑問だったという。
青谷上寺地遺跡から西に約50キロ離れた大山山麓に位置する妻木晩田遺跡は紀元前1世紀から3世紀前半にかけての住居や高床倉庫跡が900棟以上見つかった日本最大級の集落跡。支配者層が埋葬された約40基の四隅突出型(よすみとっしゅつがた)墳丘墓が見つかっている。一方で、被支配者層の埋葬跡は見つからず、濱田さんは「どこに、どんな形で埋葬されているのか」と思ったという。
魏志倭人伝によると、倭の社会は支配者層である「大人」、一般層の「下戸」、奴隷層の「生口」「奴婢」で構成された。鳥取県内の遺跡では、弥生時代中期まで、土壙墓群や木棺墓群といった死者を単体埋葬した墓域が確認されており、そこに有力者たちも埋葬されていたという。ところが、身分の差がよりはっきりしてくる弥生時代後期になると、妻木晩田遺跡でみられるように支配者層の墳丘墓が相次いで見つかる一方、被支配者層の埋葬地は確認しづらくなる。濵田さんは、このころに「埋葬・習俗に大きな変化があったのではないか」と推測し、変化のひとつが被支配者層の集団埋葬だったとした。
濵田さんは今回の仮説を、3月に鳥取県が主催したシンポジウム「続々・倭人の真実」で発表。そのパネルディスカッションで、国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎教授(当時)=先史考古学=は「社会的地位が低い人たちの埋葬のあり方を初めて明らかにした可能性もある」と指摘した。
濵田さんは、今回の仮説を検証するには「類似する埋葬の場がほかにも確認されることが必要」と話し、各地の遺跡調査の進展に期待を寄せた。
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