デビューを翌年に控え、耐久試験中の新幹線車両「N700系」=京都市で2006年10月、鶴谷真撮影

 しんかんせん。私は幼少時から血中テツ分濃度が高く、新幹線はまさに夢の超特急だった。赤ん坊の頃を除けば、物心ついて初めて乗ったのは、当時住んでいた神戸市から横浜市に向かった1986年の夏休み。小学6年だった。新神戸で元祖0系に乗り込むと、デッキと客室を仕切るドアが自動で開閉することに驚き、何のショックもなく滑り出すやいなや六甲トンネルの壁面が後ろへ飛び去る様にしびれたものだ。

 帰りの新幹線では、「あっちだ」と言いながらテレビ局のクルーたちが通路をドヤドヤと進んでいった。晩にテレビを見ると土井たか子さんが車中でインタビューに応じている。その直後に社会党(当時)の委員長になった。食堂車やビュッフェへと人が行き交い、弁当や土産を満載したワゴン販売の売り声はにぎやか。長大な16両編成の車中はさながら走る街の趣だった。

 東京―新大阪間515キロを結ぶ東海道新幹線は今秋、60周年を迎えた。一番列車は64年10月1日午前6時。「ひかり1号」が東京を、「ひかり2号」が新大阪を発車した。膨大な死と破壊をもたらした戦争に負けてわずか19年、荒廃からの復興そして高度経済成長を象徴し、世界を仰天させたのが新幹線だ。同じ月の10日には東京オリンピックが開幕している。

 両駅間の所要は当初は4時間、翌65年から3時間10分になった。だが国鉄の財政難で投資は停滞し、最高時速は長く210キロのまま。81年に世界最速の座をフランスの高速鉄道TGVに奪われ、小学1年の私は地団駄(じだんだ)を踏んだ。JRになって新車の投入が相次ぎ、現在の最高時速は285キロ、最速の「のぞみ」は所要2時間21分だ。

 先日、久々に新大阪から乗った。飛ぶがごとき高速に達すると、京都盆地の西の入り口にあたる山崎地峡に差し掛かる。天王山と男山の間に開き、ここで複数の川と鉄道、道路が束になる。大都市に近接し、民家も事業所も多く建っているが、どこか茫洋(ぼうよう)と見え、遠くへ来た気分になる。都の喉頸(のどくび)ゆえ、戦乱期にはしばしば布陣された所だ。

 滋賀県の米原を過ぎて岐阜県に入り、関ケ原を行く。この県境付近は冬場に降雪が多い。雪が車体に付着すると、塊になって落下した際に敷石を跳ね上げて窓や床下機器を損傷させる可能性がある。この区間にはスプリンクラーが設置され、散水することで雪をざらめ状にし、舞い上がって着雪するのを防いできた。

 私が座っているのは3人掛けの窓際すなわち海側のA席である。愛知県から静岡県に入ると、広い水面が広がった。浜名湖だ。わずかに車内の空気が動く。とはいえ静かだ。寝ているかスマートフォンを眺めている人ばかり。ワゴン販売も昨年秋に廃止されてしまい、通路を行くのは警備員ばかり。1号車から16号車まで約400メートルあり、いい散歩になりそうだが、ウロウロしていると不審者扱いされるかもしれない。

 沿線の野立て看板が減ったと思う。私が10代や20代の頃は「○○大学日本校」やマンションのブランド名をよく見た記憶がある。静岡県の担当者によると、良好な景観形成などを目的とした屋外広告物条例に基づく是正指導を強めており、もはや野放しではない。ただ、そもそも外を見ている乗客が減っているようでもあり、広告効果はいかばかりか。

 全力疾走していた「のぞみ」がふっと息をついた。新幹線としては急なカーブがあるためで、減速して熱海を通過。神奈川県に入って新横浜を出れば、もうスピードはさして上がらない。座っていただけなのに、なぜか疲れた。【和歌山支局長・鶴谷真】

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