「山形弁研究家」として、方言を駆使し、テレビ番組などで活躍するダニエル・カールさん(64)は山形県を〝第二の故郷〟として、東京都内に住まいを移した今も、思いを寄せる。山形に住んだ期間は3年だが、方言の奥深さに興味を持ち、語源なども研究してきた。平成23年に発生した東日本大震災では、被災地に支援物資を届けるとともに、外国人向けにSNS(交流サイト)で情報を発信した。
「救ってくれた県」
なして(どうして)山形さ来たかというと、学生時代に2回、日本さ留学して、日本への興味が、すごくあったんだ。
高校のとき、交換留学生で奈良県の智弁学園高校に丸1年行きました。2回目は大学2年生のときで、大阪府枚方市にある関西外国語大学。どちらかというと京都寄りの場所で、そこで暮らして、それから、京都へ行き、しばらく嵐山のお寺さんでお世話になりました。それから新潟県の佐渡島で半年暮らした。山形には大学時代、ヒッチハイクの旅で通ったことがあるんですよね。お金がなかったから、どっかの公園で寝ました。季節は夏でしたが、田園風景っていうか、大自然がすごいっていう第一印象でしたね。
オラがアメリカの大学を卒業したのが1981(昭和56)年。今の若い人たちは、この時代を知らないけど、大恐慌(1929~30年代)以来、最悪の景気でしたね。アメリカは。インフレ率、失業率がすごくて。日本はオイルショックの後で、バブルの前。先輩から、(日本で英語を教える)プログラムがあると聞いたんですね。応募したら山形が声を掛けてくれたんだ。オラにとっては「救ってくれた県」ですね(笑)。
あんまり、不安はなかったですね。本当に運が良かった。おかげさまで、山形は暮らしやすいところでね。米、そば。フルーツ王国だし、肉もおいしかった。
山形県内を隅々まで
山形県にとっては、オラが初めての英語指導主事助手だったんだ。当時、県内の中学校・高校は、合わせて約210校だったんです。働いていたのが、県教育委員会の「指導課」だったんだけども、オラ1人しかいねえんだから。毎日、山形市から出張して、違う市町村さ行って、違う学校で教えていたんですよ。
今日は米沢さ行って、明日は新庄さ、次の日は鶴岡さ行って、と。そういう仕事だったんですよ。だいたい週に5回出張して、5カ所の学校で英語を教えるわけなんです。自分でバスや電車さ乗って行くんだ。これは、すごいハードスケジュールだったんだけれども、おかげさまで、山形県は隅から隅まで全部回ることができました。
山形弁はやっぱり、苦労しましたね。皆さんが「んだ、んだ(そうだ、そうだ)」と言う。初めて言われて、何だべと思いました。関西外国語大に通っていたとき、先生に「日本語で、『ん』から始まる単語は絶対ありえない」と言われましたけれども、山形に行ってみると、いっぱいありましたですね。「んぐべ(行こう)」とか。「んだ」の反対語は「んね」と言うんだよね。「そうじゃない」という意味。オラは出張から帰ってくると、「すみませーん、今日は、こういう山形弁を聞きましたけんども、分かるしぇんしぇー(先生)、いねぇがー」と聞いていました。
地域ごとに4種類
オラ、「山形弁研究家」と勝手に肩書をつくったんですが、山形弁は、大まかに分けると、4つ。細かく分けると7つ。盆地ごとで、言葉が違う。山形市のある村山盆地は村山弁。米沢の近辺は置賜盆地だから、置賜弁。新庄あたり(最上盆地)は最上弁になって。庄内地方は、庄内弁っていっても、酒田と鶴岡はまた違う。酒田は漁師言葉で語尾が「のう」なんです。鶴岡は城下町で、ちょっと関西弁が入っているんですよ。
山形県内に、「ありがとう」という言い方は4つもあるんです。山形市では「ありがとさま」といいますよね。米沢の置賜弁は「おしょうしな」という言葉がありますね。「はずかしい」って意味なんだけども、例えば、物をもらったときに、すぐお返しができなければ「はずかしい」ことだと。それが、「ありがとう」という意味になっちゃったんですね。酒田の「ありがとう」は「もっけだの~」って言う。「もっけ」は「もったいない」という意味らしい。(語尾を伸ばす)イントネーションもまた、「おもしぇえな」と思っていましたね。
電車やバスに乗っている時間が長かったんで、隣のお客さんが会話しているのを、〝盗み聞き〟して「この言葉知らねえな」とか、いろいろメモって、さすけ(差し支え)なければ、お客さんに聞いたりしました。山形弁研究が、趣味みたいなもんになっていました。
出張から帰ると、先生方から「一杯どうですか?」という感じで結構、よばれる(ごちそうになる)んです。特に秋になると、芋煮会シーズンに入ります。ほとんど、毎日、芋煮会によばれて、生徒さんと一緒のときもあるし、先生だけのときもありました。週末はもう、大変で、河原に行って、芋煮を食べながら酒を飲みました。あと、山形市内の劇団に入って、〝ちょい役〟で出たり、スキーも覚えました。
女房は、英語の先生だったんだ。米沢市出身で、当時は長井市の中学校で、教えていたんです。
24歳で上京
英語指導主事助手は1年ごとの契約更新でした。3年間の後も延長することは可能だったんです。先生という仕事は好きだったんですけども、いつまでできるか、というのが心配だったんですよね。オラは手伝いに行っているというだけのことで、ちゃんとした「先生」になるのは無理というか。当時は若い人で教員免許を持っていても、先生になれなかった人が多かったんですよ。まだ、20代だったんだけど、30代になったら、毎日、出張するのも疲れるんじゃないかと思いました。
どうしようかな、と女房と相談したりとかしました。ビジネスの興味とかありました。東京さ出て、総合商社みたいなところに入って、いろいろ役に立つんじゃないかと。その当時、(留学を含めて)5年間も日本に暮らして、言葉はある程度しゃべれたし、でかい会社に入れば、翻訳、通訳もできるし、ビジネスも勉強すれば、その分、いい仕事につながるんじゃないか、と思いました。だから、英語指導主事助手の仕事は更新しないで、24歳ちょっとの若さで上京しました。
東京都文京区の湯島天神下にあった、ちっちゃな広告代理店に入りました。香港で出版されているコンピューターの業界誌に広告を出してもらうために、いろいろ回りました。富士通とか、NECなど、でかい会社も行きましたが、ちっちゃい会社も全部、回りましたよ。言葉がまだ、100%ではなく、日本人ほどうまくないんだけれども、この顔で山形弁をしゃべるわけだから、皆さんが覚えてくれるんですね。売り上げがまあまあ伸びました。
タレントとして活躍
25歳ぐらいのときに、独立して翻訳関係の会社を開きました。それをやりながら、28~29歳の頃、平成元年だったと思うんですけども、ちょこちょこテレビに出始めました。バブル景気の頃で、当時はまだ、日本語ができる外国人はまだ、そんなに多くはなかった時代で、翻訳の仕事も結構、忙しかったんですけど、テレビに出る「ビジネスマンっぽい外国人役」を頼まれるようになったんですね。最初は「どうすりゃ、いいんですか」と戸惑ったんですけど、「ここで座って仕事してるふりをしてください」と言われて。撮影されたのをクイズ番組か何かに使われました。
そのうち、「大みそかに、東京に住んでいる外国人たちは、どんなパーティーをするのを撮影したい」ということで、オラもそのパーティーに呼ばれて行ったんです。日本人のレポーターは日本語しかできなくて、で、パーティーに来たお客さんは英語がしゃべれないわけですよ。レポーターが困っているところに、オラが「じゃあ、通訳してあげっか」と、間に入って山形弁のまま通訳したわけですね。レポーター、ディレクターから「どこで、日本語を覚えたんですか」と聞かれて、「オラ、山形だ~」と言うと、皆、喜んでくれるんですね。「おもしろいから、本番のときに来てください」とスタジオでの生番組に呼ばれて。TBSの元日の番組だったんだけども、朝の4時頃に入ってメークしたり、羽織袴のようなものを着せられて出ました。司会が伊東四朗さん、沢口靖子さん。あと、超有名な芸能人がいっぱい出ていたんだ。オラは何が何だかよく分からないんだけども、「VTR、どうぞ」みたいな感じでやっちゃったんですが、おもしろかったみたいで、後に電話が入り、少しずつそういう仕事をやるようになりました。
ある日、ケント・ギルバードさんが所属していた事務所の社長さんから「会いたい」と話があり、ギルバードさんと同じ事務所に入ることになりました。それで、ぐあーっと、いつの間にか忙しくなり、芸能人に。二足のワラジを履きながらと言うか、翻訳の会社を経営して、それプラスでレポーターとかクイズ番組に出たりして大忙しだったんだ。
カリフォルニアと山形
生まれたのはアメリカのカリフォルニア州。ロサンゼルスの近郊です。気候的には最高ですね。蒸し暑いのが好きじゃなかったら最高ですよ。湿度が低いんですね。本当にからっとして。寒いといっても、10度ぐらいで、マイナスになることは、ほとんどないんだよね。薄っぺらなジャンパー1枚で間に合うんだよね。
ロスにある「リトル・トーキョー」は大好きなんです。ちっちゃいころ、おやじに連れられて、よく行っていました。うちから車で40分ぐらいだったかな。もっと近かったかな。初めて天ぷらを食ったのが、そこなんですね。いやー、うまかったなあ。オラが、日本に興味を持っていたから、おやじが連れて行ってくれたと思うんですけども。リトル・トーキョーはエキゾチックなところもあるし、レストランとかお土産物屋さんとか、他の地域じゃ見られないのが多いんですね。
子供の頃は、大リーグのエンゼルスの試合も見に行ったり、ドジャースの試合にも行きました。距離はだいたい同じぐらいなんですよね。
でも、山形(の気候)もある意味、最高ですよ。夏は夏らしく、冬は冬らしくて。秋と春がその間にはさまって最高じゃないですか。メリハリがあるからいいんですよ。
最初、山形に来たときは7月の初めだったと思うんですが、もう暑くて。湿っぽくて。雪国だと言われたんだけど、全然、雪国ぽくなくて。11月の下旬ごろから雪が降り始めて。最初はパラパラで、まあ、この程度だったらいいかと思っていたんだけど、どんどん積もって、根雪になっていって。お正月は銀世界でした。1年目は大変だったけど、2年目からだんだん慣れてきて、3年目になったら、もう完璧な〝雪ん子〟。もう全然、なんとも思わなくなったな。雪の歩き方も〝プロ〟になってしまった。もう楽しくてね。
正しい情報を発信
東日本大震災が発生した平成21年3月11日は、東京都内の事務所にいました。もう、揺れました。あんな揺れは本当に生まれて初めてだったんだけども、NHKをつけたら、震源地は東北の方だと。えーっ、山形はどうなっているんだ、福島の友だちはどうなっているんだ、と思ったんだ。
一刻も早く、手伝いに行かんねばな、と思いました。けんども、高速道路も通れなかったわけなんだから、最初は情報をきちんと英訳して、それをツイッター(現X)などで発信しました。海外では、原発事故のことばっかり騒いでいたんですよ。大変なのは、実際、津波でやられていた人たちなのに。取材もしないで誤った情報を流す海外メディアを信じて帰国した人も多かった。
避難している外国人とか、たぶん心細かったんだよな。言葉も分がんなくて。オラの後輩という形になるんですけども、英語指導助手2人が亡くなりました。1人は、宮城県石巻市で、アメリカ人女性の先生が津波に流されました。もう1人は、岩手県陸前高田市でアラスカ出身の男性。大変なことになったんだ。
トラックで避難所へ
3月末になると、支援物資を運び始めました。レンタカー屋さんからトラックを借りて、最初に行ったのが、(山形県)米沢市にある避難所でした。福島県から避難してきた人たちが、いたんですね。米沢はまだ雪が積もっている。米沢市長さんと相談したところ、「子供の靴とか、雑貨が必要」と言われました。子供の靴を50足ぐらい買って、車に詰めて持って行きました。
そのあと、山形市の避難所さ行き、宮城県多賀城市では、ボランティアで瓦礫(がれき)の片付けの手伝いをしたんだ。家の中のヘドロをきれいにしたりだとか、使えない古い家具とか捨てたりした。でも、1日やったら「ダメだ。こんな年齢(当時51歳)だから無理だな」とわかった。これは若い人に任せるしかないと。で、トラックで野菜などを運ぶことにしたんだ。
栃木、茨城などに消防団員の知り合いがいましたが、彼らの本業は、農業なんです。ネギやホウレンソウ、キャベツなどをもらって、全部で20回ぐらいかな。岩手県の山田町まで運びました。なぜ、この町なのかと言うと、交通の便が一番、悪いからなんですね。宮古市と釜石市の間にある町なんだけども、内陸から町に直接入る道路は一本もないんです。海沿いを通らないとダメなんだ。海沿いの道路は被災して支援物資が届いてないだろうと判断しました。
実は、ちょっとだけ、山田町と〝縁〟がありました。大震災の2、3カ月前に、町で講演したんです。皆、すごぐよくオラの話を聞いてくれて。お土産もいっぱいもらった。優しくしてもらえて「おー、ええところだな」と思っていたんだ。
山田町では、自衛隊の方々が一生懸命、おにぎりを作っていて、皆さんに配っていました。おにぎりだけじゃ元気が出ねえなと思い、食べ物を運ぶことに。栃木県佐野市あたりの養鶏場では1回当たり5千個も卵をくれるんですね。気っ風がいいんです。足りないのは大田市場(東京都大田区)に行って買ったりしました。ツイッターなどで「何か寄付したい方がいらっしゃれば、私、トラックを運転しているので、回ります」とつづると、結構、連絡をもらいました。月3、4回、山田町に行きましたね。
もっと山形自慢を
山形にはコロナ禍前までには、月に1回か2回は行っていました。遊びにだったり、仕事でもたまに呼ばれたりだとかして。で、昨年後半ぐらいから、コロナが収まって来て、女房を連れて、実家のある米沢市に行って、親戚が集まってパーティーをやったんです。今年の後半には、智弁学園高校(奈良県)の仲間を連れて山形県ツアーをやろうとしています。コロナ前に一回、やったら、皆すごく喜んで「ダニエル、今度、第2弾、よろしくね」と言われたんです。皆、関西方面在住なんですけど。前回は内陸地方を回ったんですが、今度は庄内地方を巡ろと思っています。
最後に山形の話を。山形の皆さん、いい方ばかりですが、唯一、悪い点は、引っ込み思案で、礼儀正しすぎるところがあるんです。あんまり、お国自慢っておおぴっらに言わないんですよね。もうちょっと、山形のことを、自慢してみては、いかがなもんでしょうか。
(聞き手 江目智則)
◇
ダニエル・カール 1960年、米カリフォルニア州出身。高校時代、交換留学生として奈良県の智弁学園高に1年間、留学。関西外国語大で学んだ後、京都、新潟・佐渡島などで過ごし、英語指導主事助手として山形県内の公立高校・中学校で教鞭(きょうべん)を執った。現在は翻訳業、山形弁研究家、タレントなどとして活躍。
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