米国による原爆投下から79年がたとうとしている今も被爆者と認められない人が韓国にいる。広島では日本の植民地だった朝鮮半島から徴用された人たちが被爆。帰国後、被爆者健康手帳取得には国境や証人など高いハードルが立ちはだかり、未取得のまま亡くなった人も多い。2023年12月、韓国を訪ね、彼らの思いを聞いた。【安徳祐】
釜山から北西に2時間ほど車を走らせた山間部の小さな町・陜川(ハプチョン)は「韓国のヒロシマ」と呼ばれる。この農村地域は日本の植民地時代、朝鮮総督府から綿花栽培や養蚕業に従事するよう強要された。食糧生産が滞った結果、多くの住民が出稼ぎに広島に渡り、被爆した。取材に同行してくれたソウル在住の通訳の韓国人に道中、陜川のことを尋ねると「今まで陜川という地は聞いたことがなかった」という返答だった。
鄭學守(チョンハッス)さん(85)も被爆者健康手帳を持たない一人だ。1942年ごろ、陜川で土木作業を指揮していた父の経験を生かすため、家族で広島に渡った。
覚えているのは、学校でよく実施されていた避難訓練だ。訓練終了を告げる「かいじょー(解除)」という言葉を何度も繰り返し口にしていた。
母から聞いた話などによると、被爆時は自宅の近くにいた。母はそのまま弟をおぶって、鄭さんと一緒に防空壕(ごう)に避難した。「母はよく『道中、爆風で頭が吹き飛ばされた人を見た』と話していた」と振り返る。
46年春に帰国。日本で稼いだ蓄えで土地を買い、比較的裕福な暮らしをしていた。だからこそ、被爆者だと名乗り上げることはできなかった。「陜川では被爆者は他の感染症よりも忌み嫌われていた。恵まれているのにわざわざ明かす必要がなかった」。被爆当時3歳だった妹は、肺の病で15歳の時に亡くなった。自らは約40年前に不正出血が続き、子宮を摘出した。原因は不明のままだという。
かつて手帳取得のため日本へ渡ろうとしたが、夫は既に亡くなり、女性単身で日本に渡るのは「怖くて諦めた」。以来一度も手帳は申請していないという。被爆当時に一緒だった家族は2年前に他界した兄を最後に全員亡くなった。
「(当時日本に)行かなかったからしょうがないけど、今からでも手帳が欲しい」と訴える。「(手帳は)被爆した証明だから。あった方が私の人生に意味がある」。手帳を所持すれば、韓国内でも医療費の助成や健康管理手当などの支給対象となる。「日本に行かなかった私が悪いが、支援を受けられないのは残念だ」と話す。
子どもたちは家を離れ、現在は一人で暮らす。陜川には被爆者約70人が入所する原爆被害者福祉会館がある。鄭さんも一度は入所を考えたが、今の生活を「一人の方が気楽だから」と選んだ。
取材を続けていると、ふと「兄の名前は『タマダトラオ』だった」と兄の日本名を口にした。その後も記憶を呼び起こそうとし続けた。「私は『ハナコ』。妹は『スナコ』。そして弟は『トラフク』」。それが精いっぱいだった。しばらく頭を抱えたがそれ以上は思い出せなかった。
韓国原爆被害者協会によると、同協会で被爆者として登録されるには、手帳が必須だ。しかし、2003年の「402号通達」廃止以前は同協会が被爆時の状況の聞き取りなどで審査していたという。同協会陜川支部の沈鎮泰(シムジンテ)支部長(81)は在外被爆者について「402号通達もそうだが、本来は訴訟で改善するのではなく、国が積極的に支援すべきだ。日本は協会に登録されている被爆者に手帳を交付すべきだろう」と訴える。
23年5月に開かれた主要7カ国首脳会議(G7広島サミット)で岸田文雄首相と韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領は平和記念公園(中区)にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑を参拝した。日韓首脳がそろっての参拝は初だった。あれから1年が経過したが、何か進展はあったのだろうか。今月8日のシンポジウムのため来日した沈支部長は「共同で参拝しただけで、それ以降、被爆者への支援の状況は進んでいないままだ」と批判した。
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