79年前の広島。女学生だった姉は「いってかえります」と自宅を出たまま戻らず、焼けずに残った上着だけが見つかった。崩れ落ちた家で九死に一生を得て逃げる際に見た惨状――。90歳になる女性の被爆証言が今年、冊子として出版された。「耳を傾ける人がいることがありがたいんです」。一人でも多くに届くことを願っている。
女性は京都府城陽市に暮らす榎郷子(えのききょうこ)さん。結婚を機に京都に移り住み、60歳ごろから地元の女性グループや小学生たちに被爆体験を証言している。
刊行された冊子は「チョンちゃんはいうときたいんよ 原爆で消えたムッちゃんのこと」(日本機関紙出版センター、A5判32ページ)。元々は2011年、佛教大社会福祉学部の学生らが榎さんの証言を聞いて冊子にまとめていた。学生を当時指導していた黒岩晴子・元教授は関西に暮らす被爆者の生活支援などに長く関わり、貴重な証言などを出版物として残してきた。「榎さんの体験をきちんと伝えたい」と昨年から作業を進め、今年5月に刊行した。
前半は学生たちが証言をやさしく読める物語にしてイラストを添えた絵本で、後半は榎さんが12年に佛教大で証言をした際の講演内容。「チョンちゃん」は幼い頃のあだ名だ。
山積みの瓦から上着が……
米軍が広島に原爆を投下した1945年8月6日、榎さんは11歳で国民学校(現在の小学校)5年生だった。自宅は爆心地から南西に約2キロ。学校を休んで父の石崎秀一さん(当時42歳)と一緒にいた。女学生だった姉2人が家を出てしばらくすると、閃光(せんこう)が走り暗闇に。自身は無傷だったが秀一さんは庭に吹き飛ばされ、母の安代さん(同37歳)は全身に割れたガラスが突き刺さっていた。炎が迫る中、助けを求める人々に手を差し伸べる余裕もなく、郊外へ逃れた。上の姉とは翌日に再会できたが、下の姉睦子さん(同12歳)は戻ってこなかった。
10日余り後、睦子さんが同級生たちと空襲に備えて建物を取り壊す「建物疎開」の作業をしていたはずの場所を秀一さんと訪ねた。山積みの瓦に挟まっていた布をズルズルと引っ張り出すと姉の名札が付いた上着だった。「私に見つけてほしかったのかなあ。重傷だった母は上着を抱きしめ、高熱を出して寝込みました」。上着は広島市の原爆資料館(広島平和記念資料館)に寄贈し、女学生たちを襲った惨劇を伝えている。
◇ミカンを口にしなくなった母
原爆投下の前日、配給されたミカンの瓶詰を食べたがった睦子さんに「日持ちのするものは、いざという時に取っておこうね」と言った安代さんは、それを生涯悔やみ「ミカンは苦い」と口にしなくなったという。今夏も地元・城陽市内の催しで被爆証言に立った榎さんは「こんな思いをする母親をもうつくってはいけないのに、今もウクライナやガザで子どもたちが犠牲になっている。いいかげんにしてほしい。若い人たちが自分の思いを受け止めて文章にしてくれてうれしい」と話している。
本は日本機関紙出版センターのサイト(https://www.kikanshi-book.com/)から注文できる。【宇城昇】
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