国産初の電気冷蔵庫や洗濯機などを展示し、科学技術の魅力を市民らに広く発信してきた「東芝未来科学館」(川崎市幸区)が、ひっそりと幕を閉じた。経営難に苦しむ東芝が多くの事業売却を進め、会社のかたちを大きく変えたことが影響している。科学館があったビルには本社機能が置かれる。
1100万人超が来館
科学館は1961年、東芝小向事業所(幸区小向東芝町)内に開設された。川崎市や周辺自治体の社会科見学などを受け入れ、親しまれてきた。夏休みの宿題のネタ探しに訪れる親子連れも多かった。
かつてメインのスポンサーだったテレビアニメ「サザエさん」のキャラクターのパネルが来場者を出迎え、同社の企業イメージソング「光る東芝の歌」が聴けるコーナーが設けられた時期もあった。
2014年に現在の場所(幸区堀川町)に移転し、リニューアルした。川崎駅直結という好立地に加え、入場無料という気安さも手伝い、ずっと人気スポットだった。開設から63年間で延べ1100万人を超える老若男女の見学客を集めたが、6月29日で一般公開を終了した。
公開最終日、「わー、本当に広がった」。50万ボルトの静電気がたまった球体に触れると、髪の毛が逆立つコーナー。ウニのように髪の毛が逆立つと、5歳と8歳の姉妹は笑顔になった。
姉妹の母親、加藤彩菜さん(33)は「子どもは年齢が上がるごとに理解できることが増えますよね。成長に合わせてこれからも楽しめたらと思っていたので、終わるのはさみしいですね」としんみり話した。先端技術を身近に体験できるのが貴重だったという。
東芝は白熱電球のほか、カラーテレビ、扇風機など国産初の電化製品を世に出してきた。世界初のラップトップ型パソコン(PC)も東芝の手によるものだ。製品を通し、東芝の歴史を間近で見ることができた。
東京都江戸川区のエンジニア、佐藤栄貴さん(51)はラップトップPCが並ぶコーナーを眺めながら「社会人になったころのオフィスの風景を思い出しました」と振り返った。
子どもと年数回は見学に来ていたという。「技術革新の波がどんどん押し寄せたことが追体験できた。これだけのすごい施設はなかなかないですよね」と公開終了を惜しんだ。
一般公開終了の理由は
科学館は三つの役割を担ってきた。一つは最先端科学技術の展示と情報発信、二つ目は科学技術教育への貢献、三つ目は産業遺産の保存と歴史の伝承だ。なかでも最先端技術をゲーム感覚で学べることから、子どもを中心に、多くの人を夢中にした。現在、多くの企業がアミューズメント機能を持たせた自社製品を紹介する施設を持つが、その走りと言える存在だ。
どうして東芝は、長く親しまれた人気施設の一般公開をやめたのか。
東芝は数々の技術革新で戦後の高度経済成長をけん引してきたが、2015年に不正会計問題が発覚。16年には約9000億円を投じた米原子力会社ウェスチングハウスの巨額赤字が明らかになり、17年3月には債務超過に転落した。16年以降、優良事業の切り売りを進め、医療事業をキヤノンに売却。冷蔵庫などの白物家電は中国家電大手の美的集団に、薄型テレビの「レグザ」ブランドは中国の海信集団(ハイセンス)に譲渡した。現在残っているのは電気自動車(EV)や生成AIの進展で需要拡大が見込まれるパワー半導体の事業などだけだ。
東芝は5月に発表した中期経営計画(中計)で国内従業員の最大4000人削減を打ち出しており、経営再建は道半ばだ。科学館の扱いについても数年かけて検討してきたという。一般公開の終了を「事業の重点が家電など消費者向けから企業向けに転換したことから、科学館の機能見直しを行った」と説明する。
東芝によると、一般公開の終了で展示物は一部を除いて撤去する。先端技術の紹介は川崎市内の別の研究開発拠点で企業向けに公開するという。
公開最終日には元東芝の社員の姿もあった。横浜市在住の小林千代志さん(80)は科学館が建つ敷地にかつてあった工場で働いていたという。「東芝の会社の事業内容が変わったというのは分かるが、一般市民への会社のPRは手薄になるし、寂しいね」と残念がった。
東芝は中計で半導体や電力、インフラなど企業向けビジネスに注力するとともに、東京・浜松町の本社機能を科学館が入っているビルに集約することを発表した。
東芝の輝かしい歴史そのものだった科学館が、再建を模索する本社に衣替えする。東芝は日本経済を再びリードする存在になれるのか。小林さんは「困難があっても東芝は従業員を大切にしてきた。東芝で働く自信と誇りをもって頑張ってほしい」と話し、復活の日を期待している。【安藤龍朗】
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