「外から来たあなたに能登はどう見えていますか」
9月24~29日にかけて、21日に発生した能登豪雨の被災地取材に行った。そこで知り合った被災者にそう尋ねられた。1月の能登半島地震、今回の豪雨と立て続けに大災害が起き、大切に暮らしてきた場所が外部の人間の目にどう映っているのか、気になる様子だった。現地で惨状を目の当たりにした私は、答えに窮した。
私は一時200人以上が孤立した石川県輪島市門前町の海辺にある七浦(しつら)地区を中心に取材を進めた。地区に通じる道路の中で、唯一細い山道が啓開され、辛うじて通行できるようになったのが24日夕。翌朝、地区に向かうという地元住民の軽四駆に同乗させてもらい、現地入りを試みた。
厳しい取材になると、頭では分かっていた。しかし、実際にこの目で見た光景は想像を超えていた。見上げるほど積み上がった流木、崩れ落ちた川の護岸、車にぶつかるぐらい倒れ込んだ電柱、道路の所々にできた大きな穴、タイヤがスリップするほどのぬかるみ、がれきから漂うすえた臭い……。道の半分近くが崩れた場所では「どうか無事に通過できますように」と祈った。地震によるものなのか、豪雨によるものなのか、区別がつかない傷痕も広範囲にたくさんあった。
手に汗を握りながらたどり着いた七浦地区。そこで多くの被災者に話を聞いた。孤立していたため、さぞ「食料」「飲料水」に困っていただろうと思ったが、最も困ったのは「通信」「電気」と皆が口をそろえた。最初の2日間は完全に通信が断絶。親族に安否を伝えることができなくてつらかったという。七浦公民館にいた山岸知幸さん(61)は「母が被災の20分ほど前にショートステイに向かった。その後連絡が取れず、とても心配だった」と振り返った。
地震の際にも課題となった「孤立集落」。当初、行方不明者がいないとされていた七浦地区だったが、通信回復後に行方不明者が判明するなど、通信の断絶は命に関わる問題なのだと改めて感じた。
つらい場面にも遭遇した。豪雨1週間の様子を撮影していた28日、海岸で行方不明者を捜索していた警視庁の応援部隊がにわかに騒がしくなった。私がいた場所から200メートルほど向こう、流木と土砂の下から行方不明者が見つかった。チェーンソーなどを使って1時間ほどかけて救い出されたが、亡くなっていた。
取材で話を聞いていた家族が近くにおり、憔悴(しょうすい)した様子で見守っていた。それでも「見つかって良かった」。亡くなったのは5人いる孫を愛する優しいおばあちゃんだった。1週間前まで家族と楽しく過ごしていたおばあちゃんが、突然命を奪われるという現実にやり切れなさが募った。
冒頭に書いた被災者からの問いに、私は何と答えれば良かったのか。胸の中では「ここで暮らすのは厳しい」と思った。しかし、これまでもこれからも能登で暮らす人に向かってそうは言えなかった。七浦地区で26日に実施された集団避難では住民の半数が地区に残った。「ここの湧き水しか飲めない」というお年寄りもいるほどで、地元への強い愛着を感じた。災害さえなければ、どれだけ素晴らしい場所なのだろう。
取材を終え、日ごろ暮らす滋賀県長浜市に戻った時、頭が少しボーっとした。能登で見た光景とのギャップが大き過ぎた。当たり前の暮らしを当たり前に送れること。それがいかに貴重なことなのか、今かみしめている。同時に、それができない被災地の人々を思わずにいられない。砂まみれの取材ノートに書き留めた被災者の苦しみや悲しみ、能登への思い。少しでも多くの人に伝えることが、被災地を取材した私の責任だと思っている。【長谷川隆広】
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