東急といえば、鉄道や不動産事業などを手がける大企業だが、クルマ好きにとっては、箱根ターンパイクを建設した会社としても知られる。しかしこのターンパイク、実は箱根だけじゃなく渋谷や江ノ島も繋ぐ壮大なルートだったことをご存じだろうか。その名も「東急ターンパイク計画」だ!

文:ベストカーWeb編集部/写真:Adobestock、東急、ベストカーWeb編集部

■全長100kmの自動車道を民間企業が構想していた!

東急の作成した「城西南都市位置図」。破線でターンパイクのルートが記されている(「東急100年史」Web版より)

 時は第二次大戦後。東京には地方から多くの人が流れ込み、人口が爆発的に増加していた。

 そんな中、東横線と小田急線、南武線と横浜線に挟まれた多摩川西南部(現在の国道246線沿線)に、自然との共生を目指した田園都市を築いていったのが、当時の「大東急」から分離した東京急行電鉄(東急)である。

 各地に街々が開かれると、当然こういった開発地と都心(東急の場合は拠点都市の渋谷)を結ぶ交通路が必要になる。東京急行だから「当然鉄道だろ」と思うかもしれないが、さにあらず。当時のトップ五島慶太氏が目を付けたのは、将来のマイカー時代を見据えた自動車道路だった。

 そこで同社は1954年3月、渋谷~江ノ島間に全長47.3kmの有料自動車専用道の建設を決定し、運輸・建設両大臣宛に提出する。これが「東急ターンパイク」と呼ばれる計画だ。ターンパイクとは有料の高速道路を指す英語である。

 東急はさらに1954年8月、小田原~箱根間18kmを結ぶ箱根ターンパイクを、1957年8月に藤沢~小田原間30kmを結ぶ湘南ターンパイクを申請する。実現すれば東京から藤沢、小田原を経て箱根に至るおよそ100kmの一大幹線道路が完成することになる。

箱根ターンパイク。ここは渋谷から始まる壮大な道路計画の終点だった(kazu8@Adobestock)

 東急の100年史によれば、この計画を運輸省は歓迎したが、建設省が難色を示したという。

 当時建設省は、「日本の道路は劣悪」という世界銀行調査団の報告を受け、有料の自動車専用道路建設に動き出していた。法整備を行って1956年に日本道路公団を作り、翌年には名神高速道路の建設も始まっていたのだ。

 結局、東急の描いた「東急ターンパイク」計画は、日本道路公団の描く「第3京浜道路」とルートがほぼ一致することから、建設省の要請を受けて1961年に申請が取り下げられ、計画そのものが消えることとなった。

 小田原と湯河原の大観山を結ぶ観光道路として知られる箱根ターンパイク(正式名称はアネスト岩田ターンパイク箱根)。すでに東急の手を離れ、所有はNEXCO中日本の子会社である箱根ターンパイク株式会社へと移ってはいるが、この道が東急の壮大な夢の一部であることを忘れてはならない。

 箱根ターンパイクでは、時々貸し切りイベントが行われたりしている。東急ターンパイクが開通していたら、全線を貸し切ってキャノンボールレースなんてできたのかなあと思いを馳せてしまうのは、クルマ好きの悪い癖だろうか(笑)。

(参考:東急100年史)

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