宮崎市は今年、市制100周年を迎えましたが、大淀川に架かる橘橋が誕生したのは、それよりもずっと前、今から144年前のことでした。なぜ「橘」という名前がついたのか、橘橋と、タチバナというかんきつ類にまつわる疑問をシリーズでお伝えします。17日は、橋をかけるために奮闘した1人の男性を通して橘橋の名前のルーツに迫ります。

(今栖那菜記者)
「雄大な大淀川に架かる長さ389mの橋。橘橋はいったい誰がどのようにしてかけたのでしょうか?」

国道220号にかかる橘橋。毎日、約4万台の車がこの橋を渡ります。

宮崎を代表する景観であり、車や人の行き来など私たちの生活に欠かせません。

宮崎「橋の日」実行委員会の鶴羽浩さん。

30年以上にわたり活動を続ける生粋の「橋好き」です。

鶴羽さんによると、橘橋ができたのは144年前。架けたのは行政ではなく、1人の男性でした。

(「橋の日」実行委員会 鶴羽浩さん)
「この橋は福島邦成さんという医者が架けたんです。自分の私費を持って、何とか町のためにしたいという思いで架けたというのが橘橋の始まりです。」

橋が架かる前、人々は渡し舟で行き来していました。しかし、舟は天候に左右され運航できないと生活に必要な物資が途絶えることも…。

(「橋の日」実行委員会 鶴羽浩さん)
「物流は町の発展に欠かせない。そう考えたときに橋を作らなければ、ということで行政にお願いするけど、中々難しいと…。」

お金もかかるし、当時は、西南戦争後で宮崎の町全体が疲弊しきっていました。

こうした中、橋を架けることで町をよくしたい、宮崎を豊かにしたいという一心で、明治13年(1880年)4月、福島邦成は61歳の時に現在の8000万円に相当する費用をかけ、初代の橘橋を架けました。

その後は、県が2代目、3代目と建て替えを続け、45年前に現在の6代目橘橋が完成しました。

(「橋の日」実行委員会 鶴羽浩さん)
「当時は今よりちょっと上流、上野町通りに架かっていた。ここよりもっと上のほうに架かっていたと聞いています。」

ここで1つ疑問が…。なぜ「橘橋」という名前になったのか。「橘」の由来は文献などを探っても明確な記述がなされていません。一説によると…。

(「橋の日」実行委員会 鶴羽浩さん)
「福島邦成さんは俳句などを作っていたんですよ。橘稲荷神社の南側に住んでいたので、自分の俳句の名前を「橘」の「南」と書いて「橘南」と名乗っていたんですよ。そして、この橋を架けるときにその名前から「橘」というのを取って、「橘橋」と付けたと聞いています。」

それが、この橘稲荷神社。宮崎市淀川地区にあります。

橘橋、橘通り、ニシタチ…。宮崎の地名としても定着した「橘」の名は、この神社がルーツなのかもしれません。

(「橋の日」実行委員会 鶴羽浩さん)
「やっぱり景色がいいですよね。大淀川もそうですが、町に風景を作っているんですよ。そういった意味では、宮崎の街の風景を作る大きな役割をしている川だと思うし、川の上に架かる橋ですよね。こういったものが何か。故郷の風景になっているのかなと思うんですよね。」

宮崎を離れていてもふと思い出すこの風景。橋を架けた1人の男性の宮崎の街の発展を望む思いから生まれた橘橋は、今日も人や地域をつなぐ架け橋となっています。

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