潜水漁で採った瀬戸貝とワカメを一緒にゆで、島産のニンニクや黒イチヂク、酸味がまろやかになるまで熟させた有機レモン果汁であえた前菜

4年前、森重正浩さんはオーナーシェフとして東京・奥沢で26年間営んだ「ラ・ビュット・ボワゼ」を閉じた。人気・実力・独創性と三拍子そろったフランス料理店の幕引きは、少年時代の夢への第一歩だった。

「瀬戸内海が見える場所で店を開く」。その夢を実現させたのが、瀬戸内しまなみ海道南端の大島に4月オープンした「フェヌア」だ。建築家の隈研吾さんが細部までデザインした。

風景を絵画のように見せるピクチャーウインドー。隈研吾さんがこだわって設計した

森重さんは広島県三原市で育ち、26歳で渡仏しパリで修業した。地方に目を転じ、自然に囲まれた環境で3年働き、土地の食材を活用する「キュイジーヌ・レジオナル」を学んだ。とくに影響を受けたのが、スイスに隣接したアルプスの景勝地、アヌシー湖畔に店を持つ三ツ星シェフ、マルク・ヴェラさんだ。

ヴェラさんは20代まで夏は羊飼い兼きこり、冬はスキー教師で生計を立て、山野草を縦横に使いこなした伝説的料理人だ。週1度、従業員総出で標高2000メートルまで採集に行く。野生が香り立つ料理に森重さんは衝撃を受けた。

第二の人生では"狩猟採集のフランス料理"を目標に定め、10年ほど前から瀬戸内海の両岸を訪ね歩いた。ついに探し当てたのが、中世には村上水軍の本拠地だった大島だ。だが、土地を譲ってくれる人が見つからない。

「地域の一員になることから始めよう」と、大島が属する今治市の地域おこし協力隊に応募した。ところが、大島活性化への思いや店の構想を記した作文を提出する寸前、50歳の年齢制限に気づいたという。すでに58歳。えいやと運を天に任せて提出したらなんと合格。2021年、大島に移住した。

島内の今治市役所宮窪支所にデスクを持ち、公務員として2年間勤務したが「人生初のサラリーマン生活。椅子に座っているのに慣れず、出動要請が来ると喜々としました」と笑う。島の人々に溶け込みながら草刈り、害獣駆除、学校での食育授業など、何にでも熱心に取り組んだ。漁師や猟師、農家とのつながりも深まった。

夢を実現させ、瀬戸内の大島にフェヌアを構えた森重正浩さん

狩猟免許は、仕事の一環として取得した。大島では海を泳ぎ渡ってきたイノシシが繁殖し、畑に穴を掘って農地を荒らしたり、重要な産物である高級かんきつ類を枝ごと折ったりと、深刻な農業被害をもたらしている。

森重さんは箱罠(わな)を2カ所、くくり罠を18カ所仕掛け、捕獲したときは隣の大三島にある処理施設で精肉にしている。自ら猟をすると命をいただく感覚がより強まり、動物が生きていた証しを表現したいと願うようになった。

冬のある日、海岸線を車で走っていて見つけたのが、いまフェヌアが立つ島北東の端、道の行き止まる手前の小さな集落だ。開けた海の向こうには雪を頂いた四国山地が眺められ、聞こえるのは静かな波音と鳥の鳴き声ばかり。「風景に出合った瞬間、理想の場所だと確信しました」。森重さんの目には海と四国山地が、懐かしいアヌシー湖とアルプスに重なった。今度は島民の協力を得て土地を購入できた。

設計はかねて尊敬する隈さんに頼みたいと考えたが、つてはない。そこで、これまでやってきたこと、低予算で建てる小さなレストランだが地域産業のプレゼンテーションの場となり、地元の人、訪れる人の双方に開かれたコミュニティーの場でもありたい、などを手紙にしたため、料理の写真を添えて送った。すると、本人からすぐ連絡があり22年春、案と模型を携えて来てくれた。

左側の外壁とベンチなどには大島石を使用。屋上への階段とデッキには貨物船の船底板を再利用した

「すごいね、この空気感。わかったよ」と隈さんが感激し、約2年がかりで完成したのが、木造平屋建てのフェヌアだ。地場建材を活用する隈さんらしく、今治玉川地区のヒノキ、750年の歴史を持つ今治菊間瓦が床や天井、壁で存在感を放つ。調理場の外壁には今治造船所の足場板が不揃(ふぞろ)いに張られ、屋上の展望デッキには地元の貨物船の船底に敷いてあった板が再利用された。

すごいとしか形容できないのが、外壁、外構、テラス、ベンチやテーブルにとダイナミックに配置された島特産の大島石だ。約80トンも使われているが、重さを感じさせない。入り口のドアノブ、ワインリストまでが大島石製だ。地元の石材会社や石工にとっても隈さんとの協働は、新しい技術や感性を学ぶ得がたい機会になったという。

森重さんは漁師の船から、手渡しで魚介を購入する。漁に同行することも。「生産者の顔が見える料理」は日本の食料自給率向上のキーワードだが、ここまで生産者と近い料理人は多くない。

今回、村上光昭さんと卓郎さん親子の潜水漁を取材した。潜水服とヘルメットをつけた卓郎さんが、エアホースで空気を送られながら海底の貝類を採集する。流れは速く、体力の消耗が激しい。光昭さんは船上からサポートする。

家族で漁業を営む松田壮人さん(右)から一本釣りした魚を直接、受け取る

「こうして命がけで取る人や、野菜や果物を一生懸命育ててくれる人がいるから料理ができる。食材の物語までを皿の上にのせなければ」と森重さん。

開業から3カ月。平日はランチのみだが、夜も営業する週末はディナーをゆっくり楽しみに訪れる地元客が増えている。満月の夜は海面に光の道ができて、たとえようもなく美しい。

大島では「アコウ」と呼ぶキジハタを使う。その卵には今治産の金ゴマをまぶしてカリッとポワレにして、スパイシーなビーツのソースを合わせた

海を見晴るかすガラス張りの調理場には双眼鏡を常備し、沖を行き来する船を見るのが楽しみ。料理しながら思わず「気持ちいいなあ」とつぶやくこともあるそうだ。そんな気持ちで作られた料理が、おいしくないはずはない。

食文化研究家 畑中三応子

吉川秀樹撮影

[NIKKEI The STYLE 2024年8月11日付]

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