米国のジャーナリスト、アビゲイル・シュライアー氏の著作『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』が大きな話題だ。アマゾンでは総合ランキングで1位になった。
書籍の内容は、トランスジェンダーの問題を医学的な観点も含めて検証した一級の作品だ。世界各国での評価も高い。だが、日本では当初、別の大手出版社が出す予定だったが、炎上し謝罪して、撤回した。
その後は産経新聞出版が出すことになった。だが、ここで書店への脅迫事件が起きた。大型書店のチェーン店では店頭に同書を置かなくなるところが続出した。店頭に置いた場合でも、書店員が否定的評価を書いた自作の帯を巻くという出来事も起きた。明らかに異様な事態である。だが、これがかえって同書への注目を集めることになった。言論への弾圧をはね返すいい例になることを期待したい。
「日本型リベラル」という言葉がある。通常のリベラルは、辞書を引くと「個人の自由や個性や多様性に配慮する政治的な立場だ」と書かれていることが多い。個人の自由は、政治活動、言論、職業選択などが含まれている。またジャーナリスト出身で首相も務めた石橋湛山のように「保守リベラル」という勢力も日本では一定の影響力を持った。
個人の自由への配慮と同時に、その自由への追求で社会が分断しないように配慮する考え方である。リベラルにも保守リベラルにも共通するのは「寛容の精神」だ。「日本型リベラル」はまったく別物である。
「日本型リベラル」は、個人の自由を尊重はしない。あくまでも自分たちの好みに合った「個人の自由」や「多様性」だけを尊重する。自分たちの好みに合わない人や考えには、「差別主義者」あるいは「ヘイト」としてレッテルを貼り、社会的な地位がなくなるまで執拗(しつよう)に攻撃を加える。あるいは、露骨なほどの無視や排除を決め込む。特に自分たちの感情が傷付いたという一方的な理由で他者を排除していく手法がパターン化している。今回の翻訳本への弾圧や脅迫の下地を提供している風土といっていい。まさに不寛容の典型である。
『ハリー・ポッターシリーズ』の著者、J・K・ローリング氏が、最近、スコットランドで施行されたヘイト禁止法に反対する意図で、生物学的男女の違いを明白に発言したことが話題を呼んだ。彼女を社会的に抹殺しようとするえせリベラルは、ローリング氏の発言に「ヘイト」のレッテルを貼ろうと躍起だが、生物学的男女の違いという常識的な発言が犯罪扱いされることはない、と英国のスナク首相は明言した。まだ社会の良識は機能しているのだろう。 (上武大学教授)
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