日本初の女性弁護士のうちの1人、三淵嘉子は第二次世界大戦後、裁判官となり、女性初の裁判所長に就いた。「結婚した女性は法律上無能力」という時代から、敗戦を経て、日本は男女平等の民主国家に生まれ変わった。嘉子の人生は、男性中心の社会で、ひとつひとつ自ら道を切り開くものだった。【本橋由紀】
1945(昭和20)年3月、福島県坂下町(現会津坂下町)に疎開した嘉子と長男芳武は終戦後、両親の暮らす川崎に戻った。結核の既往歴があった夫は、出征先で再び発症した。帰途についたものの46年5月に長崎の陸軍病院で妻子の顔を見ることもなく息を引き取った。
翌年、母が脳出血で急死。父は肝硬変で逝った。長弟も戦死しており、嘉子は一家の「大黒柱」となった。
そこで弁護士ではなく裁判官になろうと考えるのが、性別を超えて力を発揮しようとする嘉子だった。それは司法科試験の控室で、司法官試補採用の告示に「ただし日本帝国男子に限る」とあったことがきっかけだ。
戦前、女性は弁護士にはなることはできても、裁判官や検察官に就くことはできなかった。このとき「男女差別に対する怒り」が開眼したという。
男女平等をうたう日本国憲法が施行される直前の47年3月、嘉子は「裁判官採用願」を司法省に出した。最高裁判所を頂点とする新制度が始まるのは8月。省内に待った方がいいとの判断があったようで、この時は裁判官としては採用されず、同省民事部で民法の改正作業に携わった。
晴れて最高裁が誕生すると事務局(現事務総局)に移った嘉子は、48年1月に全国に設立された家庭裁判所を統括する家庭局と民事局兼務になった。49年8月には東京地方裁判所民事6部で判事補に。
裁判長の近藤完爾はまず、嘉子に「女であるからといって特別扱いはしませんよ」と言ったという。男性中心の社会では、男女で違う扱いをすることもある。嘉子は近藤のことを裁判官として最も尊敬した。
「自由活発に発言し、意見に耳を傾け、自他の意見の批判、修正に柔軟な姿勢を持ち続けておられた」。近藤は嘉子のことをそう評した。
若い男女のもつれから起きた事件で、嘉子は女性に厳しい意見を述べることもあった。訴訟の当事者にいきなり刃物を向けられ、刺されそうになるという経験もしている。この時、当事者をそのような気持ちにさせた自分自身の裁判官としての適格性に苦悩していた嘉子だった。
嘉子が裁判官として働き始めた時、一粒種の芳武はまだ小学生だった。嘉子の次弟の輝彦が「留守番役を求めて急きょ結婚」し、その妻温子が芳武の「お守役」になった。人の手を借りなければ子育ては難しい。仕事と家庭の両立はまだ、当たり前ではなかった。
「温子に世話になった」という芳武は生前、佐賀千恵美弁護士(71)のインタビューに答えている。50年5月、嘉子が米国に家庭裁判所の視察で長期出張した時は「さびしかった。授業はほとんどサボって、遊び回っていた」ともらしている。芳武は長じて寄生虫を研究する学者となる自由でやんちゃな自然児になった。
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