無差別殺傷事件が起きた東京・秋葉原の現場(2008年6月8日)=共同

2008年6月に東京・秋葉原の繁華街で7人が死亡、10人が重軽傷を負った無差別殺傷事件は8日で発生から16年となる。大分県立病院の救命救急センター所長、山本明彦さん(52)は当時現場に居合わせ、犠牲になった2人の救命活動に携わった。「再び起きたらどうするべきか」。医師として命を救えなかった悔しさを胸に救命救急の在り方を自問し続けている。

「何かおかしい」。あの日、秋葉原駅のホームに着くと、けたたましいサイレンの音が耳に響いた。当時は同病院の救急部長で、学会のため上京していた。改札を抜けると、救急車や消防車が何十台も止まっていた。「何か協力できることはないか」。近くにあった東京消防庁の指揮所に駆け込み、名刺を渡した。

大分県立病院で取材に応じる医師の山本明彦さん(5月、大分市)=共同

指示を受けてまず東京芸大4年の武藤舞さん(当時21)の救護に当たった。既に意識がもうろうとしており、呼吸も速かった。救急隊員に「点滴をしたい」と頼んだが、混乱していて取り合ってもらえず別の医師と一緒に救急車へ運んだ。

東京情報大2年の川口隆裕さん(当時19)も厳しい状態だった。だが「最後までやれることを」と東京都の災害派遣医療チーム「東京DMAT」と協力して点滴と気管挿管を施した。自ら申し出て病院まで付き添ったが、助からなかった。

現場にいたのはわずか30〜40分程度。当時は何が起きたのかは分からず、その後見たテレビのニュースで事件の全容を知った。数カ月後、川口さんの遺族から感謝がつづられた手紙が送られてきた。「助けてあげられず悔しかった」。手紙は今も大切に保管している。

事件から16年。「後にも先にもあれほどひどい現場に立ち会ったことはない」と山本さん。有事の際にいかに早く負傷者の元に駆け付けられるかが大事だと痛感した。教訓を伝えようと周囲の医師に事件に居合わせた経験を話すこともある。ただ近年は事件を知らない若手の医師もおり、風化を感じる。

「もし同じようなことが再び起きたら……」。救命救急に携わる医師として常に考えを巡らせている。犠牲者全員を思い、祈り続け「遺族の苦しみが少しでも和らいでほしい」と願っている。〔共同〕

秋葉原無差別殺傷事件 2008年6月8日午後0時半ごろ、JR秋葉原駅近くの歩行者天国にトラックが突っ込んで通行人をはねた後、運転していた当時25歳の加藤智大元死刑囚が買い物客らをダガーナイフで襲い、7人が死亡、10人が重軽傷を負った。元死刑囚は殺人などの罪に問われ15年2月に最高裁で刑が確定した。
上告審判決は「没頭していたインターネット掲示板で受けた嫌がらせに怒って犯行に及んだ」と動機を認定。22年7月に刑が執行された。事件を機に刃渡り5.5センチ以上で両刃の刃物の所持を禁止する改正銃刀法が09年に施行された。〔共同〕

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