かつて武者行列で使われた大将用の甲冑を囲む弓矢町の住民有志=京都市東山区で2024年6月5日午後8時半、大東祐紀撮影

 京都の夏を彩る7月の祇園祭で、中心的行事「神輿渡御(みこしとぎょ)」に加わっていた中世起源の武者行列が半世紀の中断を経て復活することが決まった。1974年を最後に途絶えたが、地元有志らが伝統を受け継ごうと、2025年夏の本格復活に向け準備を進めている。

 祇園祭は、祇園社と呼ばれた八坂神社(京都市東山区)の祭礼で、平安時代前期の869年に疫病終息を願って始まったとされる。

 神輿渡御は、祭神を移した3基の神輿が市内を巡る祇園祭の重要神事で、毎年、7月17日夕に八坂神社を出発する「神幸祭(しんこうさい)」が、24日夜に神社に迎え入れる「還幸祭(かんこうさい)」がそれぞれ催される。神輿の露払いとして17、24両日にそれぞれ行われる「山鉾(やまほこ)巡行」の「前祭(さきまつり)」「後祭(あとまつり)」と合わせて、祇園祭はハイライトを迎える。

 復活する武者行列は、神輿渡御を守るために始まった警護がルーツとされる。八坂神社に仕えてきた下級神職を起源とする「弦召(つるめそ)」と呼ばれる人たちが担い、遅くとも室町時代から行われてきたと考えられている。

 その様子は、戦国時代に日本を訪れた宣教師、ルイス・フロイスの著書「日本史」にも記されているほか、京の街並みや風物詩を描いた絵師、狩野永徳の国宝「上杉本 洛中洛外図屏風(びょうぶ)」にも登場する。

 弦召は江戸時代から八坂神社近くの弓矢町に住み、神事や魔よけ用の弓矢や弦の製作を手がけた。祇園祭では、6人の僧形の兵と約30人の甲冑(かっちゅう)姿の武者役が「弓矢組」と名乗って神輿を先導し、道を清める役目を担ってきた。

1969年の武者行列の様子。甲冑姿で神輿渡御を先導し、道を清める役割を担った=山中信寛さん提供

 しかし、受け継がれてきた甲冑の傷みが激しくなったほか、担い手不足もあり、74年を最後に途絶えた。甲冑はサイズが小さく着用可能な人が限られたことも、なり手が減った一因という。高校生の時に3年連続で武者行列に加わった山中信寛さん(70)は「終わると聞いた時はショックだった。なんでなんやって」と振り返る。

 祇園祭では、14年に山鉾の一つ「大船鉾(おおふねほこ)」が150年ぶりに、22年には「鷹山(たかやま)」が196年ぶりに、それぞれ復活するなど再興の動きが相次いでいる。そうした中、武者行列の中断から50年がたち、八坂神社の氏子組織などの働きかけもあり、弓矢町の住民有志が復活を決めた。

 7月17日の神幸祭では、武者姿ではないものの数人で神輿渡御を先導し、弓矢組ののぼりを掲げる予定だ。25年の本格復活に向け、甲冑の新調や参加者の確保なども進めるという。弓矢町町内会の高橋慎司会長(76)は「来年一度だけ復活させるのではなく、100年先も続けられるようしっかり準備したい。弓矢町が担ってきた伝統を後世に伝えていきたい」と意気込む。【大東祐紀】

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