「今日、明日に死ぬとしても手帳がほしい」。米国による原爆投下から79年がたとうとしている今も被爆者と認められない人が韓国にいる。広島では日本の植民地だった朝鮮半島から徴用された人たちが被爆。帰国後、被爆者健康手帳取得には国境や証人など高いハードルが立ちはだかり、未取得のまま亡くなった人も多い。手帳を持つ韓国人被爆者らによる集会が8日に広島で開かれたが、議題に上がらずその存在はあまり知られていない。2023年12月、韓国を訪ね、彼らの思いを聞いた。【安徳祐】
「悲しくて、悔しくて、残念だった」。韓国南部・釜山で暮らす李永洙(イヨンス)さん(84)が自らの記憶を頼りに記載して送った申請書は半年後の04年、「被爆した事実が認められない」と却下通知として戻ってきた。しばらくぼうぜんとした後「証明できないなら必要ない」と思い、通知書はゴミ箱に捨てた。
かつて手帳による支援は日本国内と国外で大きく差があった。旧厚生省が1974年に出した「402号通達」は対象を国内に限っていた。来日して手帳を取得しても、帰国すれば被爆者と認められず、手帳は紙切れ同然だった。
日本政府が政策を転換したのは2003年。「被爆者はどこにいても被爆者」として国外の被爆者にも被爆者援護法の適用を認めた前年の大阪高裁判決が確定したため。だが、そこから在外被爆者が手帳を申請しても、取得に必要な被爆に関する証言などを集めるのは困難だった。
李さんは5歳のとき、爆心地から約2キロ南の千田町(現中区)で被爆したとみられる。身内から聞いた話でほとんど記憶がない。李さんの父雨春(ウチュン)さんは原爆投下の1週間ほど前に釜山から広島にわたり「マルボシ」という運送会社で働いたという。李さんは雨春さんと一緒に、釜山で近所だった広島の知人男性の家に泊まっていた。
8月6日は朝食中だった。いわしに白菜、そして「黄色いキムチ」と呼んでいた、たくあんを食べていた。急に家は崩れ落ち、その後の記憶は断片的だ。避難途中、近くの土手で雨春さんと再会したことだけは覚えている。それから数日して、雨春さんとともに釜山に帰国した。
帰国してしばらくすると、被爆時に負ったとみられる左足と左肩の傷痕に水ぶくれができ、うみが出始めた。病院に通い続けたが医者には原爆の知識はなく皮膚病と診断された。「いくら治療してもらっても治らないから段々と原爆の影響ではないかと思い始めた」と話す。治るのに7年ほどかかった。今も無性に体がかゆくなることがあり、かゆみ止めの薬が手放せない。
雨春さんも帰国後、左足がたびたび、まひしたかのようになった。その後、寝たきりの生活となり、1985年に脳梗塞(こうそく)で亡くなった。
大阪高裁の判決確定後、韓国原爆被害者協会釜山支部の勧めで手帳を申請した。「悔しかったが、時間が流れるにつれて諦めるしかないと考えるようになった」。申請が却下された時のことを振り返った。「自分が被爆したと証明してくれる人がいないから、どうしようもない。もう明日死ぬかもしれない歳だし、何かを訴えるよりか諦めた方が楽だ」。無念そうな表情を浮かべ、そうつぶやいた。
同協会などによると朝鮮半島出身の被爆者は約7万人で、死亡を免れた3万人のうち約2万3000人が韓国に帰国したと推定されるが、正確な数はわかっていない。同協会によると、韓国在住の被爆者は2024年5月末時点で1698人。李さんのように手帳のない被爆者は36人いるという。16年時点では76人がいたが、半数の38人が死亡、手帳を取得できたのは76人中わずか2人だけだ。
旧厚生省の通達は30年近く廃止されなかった。多くの韓国在住の被爆者が申請しても李さんのように却下されている。彼らを支援してきた「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部の世話人、豊永恵三郎さん(88)は「通達が廃止された時点で、彼らの身内の多くが亡くなっていた。日本政府が在外被爆者を長らく排除しなければ、証言者がいるうちに手帳が取れたはず」と批判する。
取材に同席した同協会釜山支部の柳秉文(リュビョンムン)支部長(79)は「手帳はお金では買えない被爆者の足跡だ」と強調する。釜山には466人の被爆者が暮らし、李さんを含め6人が手帳を所持していない。「(約79年前の)細かい記憶がないのが当たり前だ。手帳申請の審査を緩和したとしても記憶がなければ取得は難しいだろう」と嘆いた。
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