明治時代に生まれた炭酸飲料の瓶を探して神戸の山々を歩いている男性がいる。街では消えてしまった希少な瓶が、なぜか山中に残っていることがあるという。有馬温泉(神戸市北区)付近の山中で100年以上前に製造された「有馬鉱泉」の瓶の一部を見つけたとの知らせを受け、私(記者)は回収に同行した。
兵庫県内では明治時代に川西市や宝塚市で見つかった鉱泉から「三ツ矢サイダー」や「ウィルキンソン」の起源となる炭酸飲料が発売されるなどの歴史がある。男性は神戸市職員の志方功一さん(46)。2023年に「炭酸飲料愛好会」をつくり、インスタグラムで関連情報を発信している。
偶然拾ったレトロな小瓶
瓶をネットオークションや古物店で収集している志方さんは23年5月、布引(ぬのびき)の山中でレトロな小瓶を偶然拾った。「六甲山系には昔の瓶が眠っているかもしれない」。休日にごみ拾いを兼ねて山を歩くようになった。
予想は当たった。鉢伏山(神戸市須磨区)や再度(ふたたび)山(同市中央区)でウィルキンソンなどの昔の炭酸飲料の瓶を見つけた。
明治から大正に製造された有馬鉱泉の瓶の一部を見つけたのは24年5月中旬。骨董市場に出回ることが少ない希少な瓶だったため、「他に証人が必要だ」と思い、そのままにして戻ったという。
6月中旬、志方さんは有馬温泉街から回収に向かった。駅前で土産物店「吉高屋」を営み、有馬の炭酸の歴史に詳しい吉田佳展(よしのぶ)さん(66)と私も同行する。
吉田さんによると、有馬では源泉から発生するガスで虫や鳥が死ぬことがあったため、江戸時代まで炭酸泉は「毒水」と恐れられた。虫地獄、鳥地獄の石碑もある。明治に入り、当時の町長が内務省の検査機関に分析してもらい、人体に有益な水であることが判明し、飲用されるようになった。
山道に向かう途中の炭酸泉源公園では丸い石の中から炭酸泉が湧いている。「昔はここでコップにくんだものを、砂糖を入れて販売していたそうです。周辺工事の影響なのか水質は少し変わった気がしますが……」と吉田さん。蛇口から飲んでみた。鉄分が強いが、シュワッという炭酸の風味がする。
有馬鉱泉で製造されてい炭酸水
1901(明治34)年、公園近くに有馬鉱泉という会社が設立され、瓶入りの炭酸水やサイダーを製造した。だが会社は二十数年で吸収合併され、有馬の地での製造は終わり、瓶も世の中から消えてしまった。
六甲山頂に向かう魚屋(ととや)道と呼ばれる山道に入った。コアジサイが咲き乱れ、ハイカーたちとすれ違う。江戸時代は神戸・魚崎で取れた魚を有馬まで運ぶルートだった。
150年前に大阪―神戸間に鉄道が開通すると、住吉駅(同市東灘区)が有馬の最寄り駅となり、六甲山を越える魚屋道を観光客らも利用するようになった。その客を目当てに山中に茶屋が次々と生まれた。今でも道脇にコンクリートや石垣などの跡が残る。
「ここです」。約30分進んだところで志方さんが立ち止まった。道から少し入った草の間に瓶の破片があった。泥で汚れているが、一つは底の部分で鼓のマークと「有」の文字が見える。もう一つはボトルネック部分で滑り止めのリング状の出っ張りがある。いずれも有馬鉱泉の瓶を示す特徴という。
この付近には茶屋があり、炭酸飲料を販売していたとみられる。飲み終わった旅人が投げ捨てたのだろうか。経緯は分からないが、100年以上も前の瓶の一部が、そこに埋もれていた。
志方さんによると、有馬一帯を何度か探し歩いたが見つからず、吉田さんに可能性のある場所のアドバイスをもらい、発見に至った。無事回収し、「興味のない人から見ればごみかもしれないが、私にとっては大発見。何らかの形で公開をしたい」と喜んでいた。
吉田さんは2001年に有馬の商店主仲間らと強炭酸の有馬サイダーを復活させた。現在は町の自治協議会長を務め、25年に自治会館をリニューアルして開設する観光施設に、有馬の古写真などとともに炭酸飲料の歴史を紹介するコーナーを設けたいという。
「有馬鉱泉の瓶が有馬の地で見つかったことがうれしい。可能ならばそこでの展示を検討したい」と話していた。【山本真也】
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