新潟水俣病の訴訟で原告団長を務める皆川栄一さん(2023年11月、新潟県阿賀町)=共同

水俣病特別措置法に基づく救済対象外となった住民らが水俣病の症状を訴え、国などに損害賠償を求めた訴訟で、新潟地裁が18日、原告149人のうち47人に判決を言い渡す。

裁判闘争は約10年に及び、原告の平均年齢は75歳を超えた。判決を聞けずに亡くなった人もいる。皆川栄一団長(80)は「一刻も早い解決を」と全員救済を求めている。

生まれ育った新潟県阿賀町の自宅のそばを阿賀野川が流れていた。放課後に釣った魚を食べ、生活には川の水を利用。父は渡し船の船頭で、川と共に生きてきた。

手足のしびれや耳鳴りなどの症状を感じ始めたのは20歳ごろ。約2年後の1965年、新潟水俣病が公式確認された。工場から阿賀野川に排出されたメチル水銀が原因だった。

67年に第1次訴訟が始まり、自らも「同じ症状があるということは、水俣病だ」と感じた。

しかし当時は患者への偏見が強く、親戚からは「検査や申請は絶対にするな」。大工の仕事中も頭がぼうっとするなどしたが、失職や家族への差別を恐れ「自分を殺して生きていくしかない」と言い聞かせてきた。

69歳の時、子も独立し兄弟も出て行った家で、むなしい気持ちになった。「このまま生きていていいのか」。特措法に基づく給付申請をしようとしたが受付期間が過ぎており、提訴を決意した。

取材などにも被害を打ち明けたことで、親戚付き合いを気にする息子夫婦とは疎遠になった。それでも「この闘いが終われば皆分かってくれるんじゃないか」との思いを支えに過ごしてきた。

同種訴訟では23年9月、大阪地裁で原告全員を水俣病と認める判決が出た。新潟訴訟でも「同じような判決が出れば、国を動かすことも可能だと思う」。国の責任が明確になり、被害を訴える人全員を救済する制度が確立されることが願いだ。〔共同〕

▼新潟水俣病 水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくと並び日本の四大公害病の一つ。新潟県阿賀町にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)鹿瀬工場の排水に含まれていた有害なメチル水銀が阿賀野川に流出し、汚染された魚を食べた住民が手足の感覚障害や視野狭窄(きょうさく)などを発症した。
1967年に被害者が昭電に賠償を求めた第1次訴訟は公害裁判の先駆けとなり、68年に熊本県の水俣病とともに公害に認定された。

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