松本サリン事件でサリンの生成工程や薬品の入手ルートを調べた元長野県警刑事の上原敬さん(長野市)=共同

長野県警捜査1課特殊事件捜査係の係長として松本サリン事件を捜査した上原敬さん(69)が27日までに取材に応じ、「事件発生1カ月後には、オウム真理教の影は出てきていた」と証言した。サリンの生成工程や薬品の入手ルートを調べる中で、教団のダミー会社に行き当たった。

1994年6月27日夜、「食中毒かもしれない」と一報が入った。現場に向かうと、路上にはハンカチで口を押さえる人や座り込む人の姿。何があったのか松本署員に尋ねても、全く分からなかった。近くのアパート一室一室に「大丈夫ですか」と声をかけて回った。

発生翌日、県警は第1通報者の会社員、河野義行さん(74)宅を容疑者不詳のまま家宅捜索し、薬品類を押収した。7月3日には、捜査1課長が原因物質を「サリンと推定される」と発表。上原さんは「薬品A班」のリーダーに任命され、多くの文献や専門家の意見を参考に、サリンの生成方法を割り出していった。

生成に必要な薬品の販売ルートをたどると、教団のダミー会社が浮上。県警は、サリン被害のため入院していた河野さんが退院した7月30日を待って事情聴取したが、それ以前に上原さんらは教団の存在をつかんでいたという。「冬ごろには確信を持っていた」

県警と報道各社は河野さんを犯人視していたが、上原さんは「猛毒のサリン。一般家庭では作れないと違和感を持っていた」と振り返る。一方で「県警には河野さんが犯人だと思った人もいたかもしれない」。

薬品捜査がおおむね終わり、刑事らがダミー会社の倉庫に張り込みをしていた翌年3月20日、東京で地下鉄サリン事件が起きた。「やられてしまった」。オウムと直感した。

6月、警視庁と県警の合同捜査本部ができ、上原さんら13人は東京へ向かった。翌月、教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)元死刑囚らの逮捕状を取ると、達成感から先輩刑事がぼろぼろ涙したのを覚えている。

オウムの存在はつかめていた。ただ、サリンを生成した人物や噴霧した実行行為者にはたどり着けなかった。上原さんは「あともう一歩だったんだ」と悔しさをにじませた。〔共同〕

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。