時代物から世話物まで、多彩な語りで魅了した文楽太夫で人間国宝の豊竹咲太夫さんが1月31日、79歳で亡くなった。約20年にわたり咲太夫さんの三味線を弾いた鶴澤燕三(えんざ)さんや、親交の深かった歌舞伎俳優の坂東玉三郎さんが追悼の言葉を寄せた。(聞き手 田中佐和)
鶴澤燕三さん「本物の芸を持った方」
「咲太夫こけちゃってね。復帰できるか分からないんです」と奥さまから電話があったのは、令和4年9月のことです。でも、これまでも病気のたびに不死鳥のごとく復帰されたので、まさか舞台復帰がかなわないなんて思いもしませんでした。
約20年前、私が燕二郎時代に咲さん兄さんのご指名で組むことになりました。当時は体重100キロ超の偉丈夫で、声も大きいしパワーで押していくエネルギッシュな舞台で、なかなか太刀打ちできなかった。
平成18年に燕三を襲名した際の「ひらかな盛衰記・松右衛門内より逆櫓の段」も僕の力が足りず、初日を聴いてはった(鶴澤)清治兄さんに「もっと自己主張しないと、咲太夫の会で脇弾きしてるみたいや」と言われてしまいました。
でも、これは師匠の五代目燕三が舞台上で脳出血で倒れたときに弾いていた演目で「師匠の思いを晴らせ」と、咲さん兄さんが提案してくださったんです。おかげで晴れやかな襲名をさせていただきました。
26年6月、私は公演中に脳梗塞を発症し入院しました。お休みしている間に、9月公演で「引窓」を咲太夫・燕三でやる配役が出てしまった。代役を…と思ったら、咲さん兄さんが「8月に入ったらテストしよか」と言ってくださった。まだ三味線の糸に撥(ばち)がまともに当たらない状態で、「やっぱり君、無理やなぁ」と言われ、テストに落ちるだろうと思いながらも必死に稽古しました。
テスト当日、「引窓」を弾き終わると一言、「大丈夫や。いこ」とおっしゃったんです。本当に気軽な感じで。それで心の荷が下りた。また舞台に出よう、という気になれました。
9月公演初日、最初の撥が糸に当たらなかったら、文楽をやめる覚悟で舞台に上がりました。隣でひやひやされたはずです。「三味線がどうであれ自分はやれる」という自信もあったと思いますが、太夫を助けるはずの三味線がへろへろだなんて私なら悩む。
でも、咲さん兄さんは私を見捨てないでくれました。あのとき無理にでも舞台に引っ張り出して隣に座らせてくださったおかげで復帰できたと、大恩を感じています。
昔の名人の薫陶を受けた最後の太夫で、お父さまの八代目竹本綱太夫師匠が十代目竹澤弥七師匠と組んだ「近松物(近松門左衛門の作品)」の数々を継承されていました。「冥途の飛脚」の「淡路町」や「心中天網島」の「紙屋内」「大和屋」は隣で弾かせてもらっていて本当に楽しかった。普通に声を出せば義太夫になる、本物の芸を持った方でした。
坂東玉三郎さん「十分にしゃべったり語ったり」
咲太夫さんには35年くらい前、私が40歳になるかならないかのあたりから、本行(ほんぎょう=文楽)の語りのことを親しくお教えいただいたことが一番の思い出です。本当にお世話になりました。
歌舞伎は普段からよく見にいらしていて、「伽羅先代萩」とか「阿古屋」とか、私が義太夫狂言をやるときには公演後に楽屋でアドバイスをしてくださいました。「吉野川」や「(仮名手本忠臣蔵)九段目」の戸無瀬でも、(義太夫節で使う大阪弁の)訛りのことや、(役が)どういう気持ちだったらこうなるか、という気持ちのことをよくおっしゃっていましたね。
私も分からないことがあって困ったらご連絡して、「咲さん、これどうやったらいいの?」と聞いていました。いつも「これはな、こうやって語るんや」と丁寧に教えてくださいました。とても親しくないとそんなことはできません。
お体を悪くなさってからここ10年ほどは遠慮していて、亡くなるまでお目にかかることができませんでした。まだお若かったから残念に思います。でも、本当に舞台がお好きな方で、お元気な頃はしょっちゅう南座や歌舞伎座の楽屋にいらっしゃって、もう十分にしゃべったり語ったりしてきました。2人で会うときはお芝居の話ばかりしていたことが今、思い出されます。
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