カラー化した写真を見た生前の浜井さん(右)は、庭田さん(左)に「忘れていた記憶を思い出した」と話してくれたという=庭田さん提供

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。死者は14万人とも言われ、広島市の市街地は一瞬にして焼け野原になった。そんな広島で戦前・戦後に撮影されたモノクロの写真を、人工知能(AI)の技術を用いてカラー化し、当時の記憶をよみがえらせる「記憶の解凍」プロジェクトが行われている。同プロジェクトに取り組む庭田杏珠さん(22)に、取り組みの趣旨や狙いを尋ねた。【上智大・佐藤香奈(キャンパる編集部)】

「家族を身近に感じてほしい」

 広島県出身の庭田さんが「記憶の解凍」に取り組み始めたのは高校生の時。広島市の平和記念公園で、核兵器禁止条約の締結を求める署名活動をしていた際、被爆者の浜井徳三さんと偶然出会ったことがきっかけだった。

 原爆投下時、浜井さん自身は市外に疎開していて無事だったが、市内で理髪店を営んでいた両親と兄姉を失った。被爆前の広島市の街並みを知る浜井さんは、映画「この世界の片隅に」の制作に協力した。作品に登場する理髪店は浜井さんの実家がモデルだ。

 浜井さんは、亡くなった家族に会いたいあまり何度も映画館に通っていた。そのことを知った庭田さんは、当時覚えたばかりのAIによる自動色付けの技術を使って、浜井さんにカラー化した写真をアルバムにしてプレゼントした。

浜井さんが提供した、広島の桜の名所・長寿園で、浜井さんの家族らがお花見をする様子を写した写真。庭田さんがカラー化した。左から4人目の母親に抱かれ、白いニット帽を被った男の子が浜井さん=庭田さん提供

 元になったのは、浜井さんが疎開する際に持ち出して大切に保管していた家族写真のアルバムだ。家族との日常を写した白黒の写真が収められていた。「家族のことを身近に感じてほしいと思った」と庭田さんは話す。浜井さんは「まるで生きているみたいだ。昨日のことのように思い出す」と大喜びしてくれた。

モノクロの元写真では、木々が生い茂っているように見える=浜井徳三さん提供

よみがえる被爆前の日常風景

 この出来事をきっかけに、庭田さんは被爆前に撮られた被爆地の写真の「記憶の色」の復元にのめり込んでいく。カラー化した写真を集めた展示会の開催や、被爆前の広島を再現した「記憶の解凍」AR(拡張現実)アプリの開発などにも取り組んだ。東京大学進学後は、2020年までの成果をまとめた写真集を出版。広島と東京を往復しながら、戦争体験者との対話を続けてきた。

 戦争の記憶を伝えるのは、語り手にとっても、聞き手にとってもつらいこと。しかし色を取り戻した被爆前の日常の写真は、当事者の語りやすい記憶を引き出すことができるという。「被爆前に今と変わらない幸せな日常があったと伝えることで、原爆で失われた悲劇を想像させることができる」と庭田さんは言う。

 昨夏には、庭田さんがかつて通っていた幼稚園の平和学習に招かれ、講演を行った。「写真に写っている人が、笑っていてうれしかった。原爆が落とされて悲しかった」。カラー化した写真を見た園児から、そんな感想を聞かされた。庭田さんは、写真の中の人の幸せな姿を感じ取り、その後の悲劇も想像できていることに感心したという。自身が幼稚園の時には、原爆の悲惨な光景を写した写真ばかりを目にして苦手意識を持っていたからだ。

 年下の世代にとって、戦争はさらに遠い過去の出来事になっている。それでも、身近に感じてもらう方法はあるのだと庭田さんは実感できた。「私自身も戦争を体験していない世代だが、その下の世代にも伝え続けていくことが使命だと感じた」と話す。

7年の取り組みが映画に

 終戦から80年を迎える来年の夏には、「記憶の解凍」の取り組みを追った映画が公開される予定だ。庭田さんが7年間撮りためた被爆者との対話の映像など、庭田さんの活動がドキュメンタリー形式で盛り込まれる。

 映画化は、大学時代にコメンテーターをつとめたテレビ番組の司会者で、ジャーナリストの堀潤さんからの提案がきっかけだった。庭田さんは、堀さんとともに共同監督を務める。

聖心女子大での展示会で、カラー化した写真の前でそれぞれがどんな場面なのかを説明する庭田さん=庭田さん提供

 これまで国内外30人以上に話を聞き、カラー化した写真は300枚以上にのぼる。しかし映画で全ての人のことには触れられない。「どの方のお話も心に響くメッセージばかりで、どういうふうに選んでいこうか迷いながら制作を進めている」と語った。

 ただ証言を並べた映画ではない。子どもたちや海外の人にも興味を持ってもらえるようにと、自身が書いたイラストを用いてアニメーションにも挑戦している。今年3月に実施したクラウドファンディングの資金を用いて、プロの力も借り、アニメーションもより良いものにできそうだという。「戦争や平和について関心のない人にも見てもらいたい」と庭田さんは話す。映画では、自分が行けない土地でも戦争の記憶を伝えられるからだ。

今後は自らが伝える側に

 昨年7月には、「記憶の解凍」の出発点だった浜井さんが、88歳で亡くなった。戦争体験者に話を聞けなくなる日は迫っている。「戦争を直接体験していない世代が、当事者の記憶の100%を受け継ぐことはできない。可能な限りは戦争当事者にお話をうかがうことを大事にしたいが、被爆者なき時代に記憶を伝える上で、自分なりに表現することが新しい継承のあり方だ」と庭田さんは話す。

 今春、広島テレビ放送に就職。報道部の記者として多忙な日々を送っている。地元の広島テレビには、高校時代から「記憶の解凍」の取り組みを報道してもらっていた。戦争や平和に興味がない人からも反響があり、テレビの影響力を日々感じてきたという。「自分のこととして戦争をとらえていない人にも、日常の中で想像してほしい」。そんな思いから決めた就職先だ。「今までは伝えてもらってきた側だったが、今度は私自身が伝える側として携わりたい」と意気込む。

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