太平洋戦争末期の1945年7月24日、米軍機は神戸市内に4発の爆弾を投下した。兵庫県芦屋市の永江勲さん(99)はこの日朝、勤労動員先の寮で、大きな爆弾がすぐ近くを通り過ぎるのを目撃した。パンプキンの異名を持つ「模擬原爆」。原爆の投下訓練を兼ねており、この爆弾は多くの人命を奪った。永江さんは間近で見た光景が忘れられず、資料の収集を今も続けている。
当時、20歳で神戸工業専門学校(現神戸大工学部、44年に神戸高等工業から改称)3年生。入学後は勤労動員で軍需工場を転々とする日々を送っていた。西宮市の川西航空機(新明和工業の前身)の工場が6月の空襲で壊滅し、川崎車両(神戸市兵庫区)に移り、須磨区の一軒家の寮に学生が集められて暮らしていた。
午前8時過ぎ、警戒警報が鳴り響いた。寮の外に出ると、夏の青空に米軍機1機が現れ、黒い物体を投下した。爆弾はどんどん近づいて来る。弾の周囲に空気の波紋が広がっているのが分かった。「今さら逃げても間に合わん。爆弾とにらめっこでもするか」。7、8人いた周囲の友だちに強がりを言った。直撃を免れ、爆弾は轟音(ごうおん)とともにすぐ斜め上空を通過した。原爆と同じ重さ(約4・5トン)でずんぐりと丸い形をしていたはずだが、永江さんの目には魚雷のような形に見え、家一軒の屋根くらいの長さがあった。視界から消えて間もなく、大きな爆発音と地響きがした。「助かった」。しかし後から恐怖が襲ってきた。
寮から約1キロ北東の住宅街に着弾していた。見に行くと、家々が消え、直径約10メートル、深さ約5メートルの穴が開いていた。この日、川崎車両にも落ちた。翌日出勤すると工場がめちゃめちゃに破壊され、製造していた機関車が吹き飛ばされていた。工員が何人か亡くなったと聞いた。
終戦後、工場で残務整理をさせられた。ある日、朝鮮出身の少年たち50~60人がこん棒などを手にして襲いかかってきた。彼らも戦時中、工場で働いていたが、学生の中にはつらく当たったり、殴ったりする者がいた。その仕返しだったのか、学生は取り囲まれ、次々に袋だたきにされた。次は自分の番かと覚悟したところ、少年らは永江さんの前に来ると手で敬礼をして立ち去って行った。
戦時中は、班長で10人ほどの朝鮮人少年が配下にいて雑用を頼んでいたが、故郷を遠く離れて寂しいだろうと、自宅にあった漫画雑誌を何度かまとめて差し入れたことがあった。「あの時やさしくしたからだろうか」と後から考えたりした。
戦後は建築設計の仕事に就き、数々の建物の建設に携わった。定年後も建築確認などを担う建築主事として81歳まで働いた。引退後、時間ができたので、あの日に目撃した巨大な爆弾について調べ始めた。通常の1トン爆弾だと思っていたが、被害を受けた場所から、あれは模擬原爆だったと知った。
来年で100歳になる。戦時中は間近で機銃掃射を受け、空襲に何度も遭った。前日まで一緒に働いていた仲間が命を落とすのも普通だった。大学で文系に進んだ同級生の多くは戦地に行ったまま帰らなかった。「自分もいつ死んでもおかしくないと思っていた。ここまで生きて戦後の世を見るとは思わなかった」
7年前に妻を亡くし、1人暮らし。昨年暮れに体調を崩してから外出はほとんどしなくなったが、模擬原爆については、研究者の講演会があれば出かけていき、新聞の関連記事の切り抜きやインターネットでの資料収集を続ける。神戸では計4発が投下されたとされるが、1発の着弾地点が分かっていないなど、まだ謎が残る。「あの日目にしたのはヒロシマやナガサキの惨禍につながる爆弾だった。生きているうちに自分が体験したことをもっと深く知りたい」と願う。【山本真也】
模擬原爆
1945年7~8月、米軍が原爆投下の訓練として日本各地に投下した。長崎に落とされたプルトニウム型原爆と同じくずんぐりとした形状で、カボチャに似ていることから「パンプキン」と呼ばれた。全国に計49発投下され、計400人以上が犠牲になったとされる。
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