対馬丸の撃沈で弟の国吉真英さんを失った又吉正子さん。説得して疎開させたことを今も悔いている=那覇市で2024年8月20日、喜屋武真之介撮影

 第二次世界大戦中の1944年8月22日夜、沖縄本島から九州へ向かっていた学童疎開船「対馬丸」が、米潜水艦の攻撃で海に沈んだ。乗っていた児童や引率教員、一般住民ら計約1800人のうち、犠牲者は判明しているだけで1484人に上る。那覇市の又吉正子さん(92)は、当時10歳だった弟の国吉真英さんを説得して対馬丸に乗せたことを80年たった今も悔やみ続ける。「私が死んで、真英に会えたら、真っ先に『ごめんね』って言いたい」

 政府が南西諸島の住民を島外に疎開(避難)させることを決めたのは44年7月。日本が「絶対国防圏」としていた西太平洋のサイパン島が米軍の手に落ち、沖縄への進攻が現実的になったためだった。沖縄県からは子どもや高齢者ら計10万人を船で九州や台湾へ疎開させる計画で、子どもたちの疎開は44年8月中旬から本格化した。

 真英さんは当初、8月19日に出航する船に乗る予定だった。しかし、疎開の話を聞いた真英さんは家の外に逃げ出すほど嫌がった。

国吉真英さん=那覇市の対馬丸記念館で2024年8月20日午後1時54分、比嘉洋撮影

 正子さんは「真英は甘えん坊だった」と振り返る。長男だった真英さんは家の跡取りとして特別扱いされていた。正子さんや母がお手伝いさんと円卓を囲んで食事していた一方、真英さんは別室で父とお膳を並べ、品数も多かった。おやつも真英さんの分は正子さんより多く、けんかになっても叱られるのは正子さんだった。「真英は大事に大事に育てられていた」

 「お父さんやお母さんと離れたくない」と疎開を渋る真英さんに、正子さんは言い聞かせた。「沖縄が戦場になれば、みんな死ぬかもしれない。あなたが向こうに行けば、国吉の名前は続いて、お父さんもお母さんも安心するでしょ」。真英さんは「うん」とうなずいたという。

 正子さんにも、一人で疎開する寂しさは理解できた。家族と少しでも長く過ごせるよう、出発の日を数日ずらすことを提案。真英さんも喜んだ。新たに決まった出発の日が21日だった。

米軍潜水艦の攻撃で沈没した対馬丸

 当日の朝、那覇港は児童や学校関係者、見送りの家族らでごった返していた。正子さんも両親と一緒に港まで同行したが、学校側に真英さんを引き渡した後はその姿を見失った。別れの言葉も満足にかけられず、どの船に乗り込んだのかもわからないまま、夕方に出航した対馬丸を含む3隻の疎開船に高台から手を振った。

 1週間ほどたったある日、正子さんは学校帰りに、近所の家から出てくる母を見かけた。「ただいま!」と声をかけたが、母は振り向きもせず黙って歩いて行った。自宅に着いた母はそのまま畳に突っ伏し、「真英が。真英が」と声を押し殺して泣き始めた。何があったのか必死に問いかける正子さんに、母は絞り出すように真英さんが乗った対馬丸が沈んだことを伝え、2人で泣き崩れた。

WEB1・対馬丸の航路.eps

 その後、両親が真英さんの話をしたことはほとんどなかった。正子さんの記憶に唯一あるのは、45年4月に米軍が沖縄本島に上陸し、一家で那覇から北部の山中に避難したときのことだ。食糧が尽き、足を痛めて動くのも困難になった父は空を指さし、「みんなで真英のところに行こう」と自決することを提案した。「軍国少女だった」という正子さんが「神風が吹いて友軍が助けに来る」と訴え、父は思いとどまったが、両親から「真英」の名前を聞いたのは、その時が最後だった。

 一家は飢えに苦しみながらも、乳幼児だった妹や弟を含め全員が戦争を生き残った。「疎開するよう説得しなければ、出発の日を変えさせなければ、真英も……」。正子さんにはそんな後悔ばかりが浮かぶ。戦後、子や孫に恵まれた。孫の男の子が10歳になったとき、「真英はこんなにも幼かったのか」と改めて痛感したという。

 政府は「台湾有事」を見据えて南西諸島の自衛隊配備を強化し、有事が迫った際に石垣島や宮古島など先島諸島から住民ら約12万人を九州・山口に避難させる計画の具体化も進める。正子さんは「80年前と重なる」と危惧する一方、戦争を体験していない世代の関心の低さに不安を感じている。「ひ孫たちが大人になったときに、戦場に送られるかもしれない。戦争は絶対にしてはいけない」【喜屋武真之介】

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