父が残した写真を見ながら家族と思い出話をする武貞あやさん(右)=神戸市東灘区で2024年7月24日午後3時27分、山本真也撮影
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 「空襲ニヨリ死亡」。戸籍謄本に書かれた小さな文字を見て、79年前、父が家族4人を空襲で失ったことを知った。父が生前ほとんど語ることのなかった戦争の記憶。家族は今、その重みをかみしめている。

 野坂昭如の小説「火垂(ほた)るの墓」にも描かれた太平洋戦争末期の神戸空襲。1945年の1年間に120回以上あり、8000人以上が犠牲になったと推定される。戦時の混乱などで被害の全容は分かっておらず、71年に発足した市民団体「神戸空襲を記録する会」は犠牲者名簿を収集。2013年、神戸市中央区の大倉山公園に1752人分の名を刻んだ慰霊碑を建立した。その後も新たに判明した氏名を刻み、今年6月に開いた刻銘追加式で36人を加え、2267人分になった。

空襲体験を秘めたまま亡くなった武貞あやさんの父・江本勝昭さん=武貞さん提供
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「空襲ニヨリ死亡」と書かれた戸籍謄本(画像の一部を加工しています)
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 兵庫県西宮市の主婦、武貞(たけさだ)あやさん(56)は追加式のニュースをテレビで見て、2月に亡くなった父の江本勝昭さん(享年85)が「空襲で家族を亡くした」と母博子さん(85)から聞いたことを思い出した。死後手続きのために取っていた戸籍謄本を確認すると、勝昭さんの39歳の母、13歳の兄、4歳の弟、2歳の妹の欄にいずれも45年5月11日午前9時半に神戸市灘区で「空襲ニヨリ死亡」と手書きされていた。

 この空襲は、神戸市東灘区の川西航空機の軍需工場が標的となり、周辺地域も爆撃され、約1400人が亡くなったとされる。

「戦争のむごさ感じる」

 勝昭さんは博子さんに「防空壕(ごう)に爆弾が落ち、母親やきょうだいが亡くなった。自分はすぐ上の兄と疎開していて助かった」と打ち明けていた。戦後、再婚でやって来た継母となじめず、高校生の時に父親が他界。大学に合格していたが進学を断念し、百貨店に就職した。当時のことは博子さんが尋ねてもあまり話したがらず、「お前に話しても分からない」と言って黙ってしまったという。

武貞あやさんの父・江本勝昭さんが持っていた幼い頃の家族写真。前列中央の背が一番低い子どもが勝昭さん。すぐ後ろで子どもを抱いているのが勝昭さんの母。空襲で亡くなったきょうだいも写っているとみられる=武貞さん提供
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 武貞さんは戸籍謄本を見て、「まさか身内4人が空襲で亡くなっていたなんて」と衝撃を受けた。勝昭さんから空襲の話を聞いたことはなかったが、「あまりにも過酷な体験なので、私にどう伝えていいのか分からなかったのだろう」と父の心情を思いやる。

 勝昭さんの死で、亡くなった4人を直接知る親族はいなくなった。武貞さんは「父が喜んでくれるだろう」と考え、記録する会に4人の氏名を届けた。2年後にある次回の刻銘追加式で慰霊碑に刻まれる予定だ。「亡くなった祖母やおじ、叔母は私よりはるかに若く、戦争のむごさを感じている」と話す。

 戦後80年近くたち、記録する会に犠牲者名を届け出るのは、子どもやきょうだいの世代が中心になっている。だが最近、武貞さんのように戸籍謄本から犠牲者を発見するケースが相次いでいる。

 大阪府河内長野市の中学教師、西下貴士さん(61)も戸籍謄本をきっかけに、22年の追加式で祖母と伯父の名を刻むことができた。

 父は空襲について一切話すことはなく、17年に亡くなった。死後に取得した戸籍謄本に父の34歳の母と11歳の兄が45年6月5日午前8時、神戸市灘区で死亡したと書かれていた。当時4歳だった父は2人と防空壕に逃げたが、焼夷(しょうい)弾の直撃を受け、父だけが助かっていた。父の死後、母(83)が親戚から断片的に聞いていた話を初めて教えてくれた。

犠牲者の「生きた証し」

神戸空襲犠牲者の刻銘追加式で手を合わせる遺族ら。銘板の半分以上がまだ埋まっていない=神戸市中央区で2024年6月2日午前10時11分、山本真也撮影
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 この日の空襲は神戸の東半分が焦土となる大規模なもので、「火垂るの墓」でも兄妹が母や自宅を失う惨状が描かれる。西下さんは家族だんらんの場で、このアニメ映画が放送された時、父が突然、大声を上げて錯乱状態になり、自室に籠もってしまったのを覚えている。

 その時は何が起きたのか分からなかったが、空襲体験のフラッシュバックだったのだと思い当たる。父は戦後、再婚で来た新しい母に育てられた。西下さんは父が沈黙を貫いた背景に、この母への遠慮や義理立てもあったのではと推察する。「いろんな事情から体験を秘めたまま亡くなった遺族は他にもいるのではないか」と話す。

 記録する会には24年5月にも、45年6月5日の空襲で18歳の伯母が亡くなっていたことが戸籍謄本で確認できたという神戸市の男性(58)から届け出があった。

 同会によると、これまで届け出時に添えられた犠牲者の戸籍謄本には「空襲ニヨリ死亡」や「戦災死」と書かれているものの他、亡くなった日時、場所だけしかないものもあった。同会事務局長の小城(こじょう)智子さん(72)は「遺族が高齢化する中で、戸籍謄本が手がかりになることが分かってきた。日時、場所からでも空襲による死亡と分かる場合があるので、亡くなった方々の生きた証しを残すために、多くの皆さんに関心を持ってほしい」と呼びかけている。問い合わせは小城さん(080・1419・8208)。【山本真也】

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