包括連携協定を結んだアサヒ飲料近畿圏本部の清水博之本部長(左)と白浜町の大江康弘町長=白浜町役場で2024年9月9日午前11時16分、大澤孝二撮影

 大手飲料メーカー「アサヒ飲料」(本社・東京都)の主力商品で、今年販売開始140周年を迎えた三ツ矢サイダー。今では世界的にも販売実績のある飲料だが、和歌山県白浜町出身者が水を買う習慣のない日本に炭酸飲料水(サイダー)を定着させ、その後に三ツ矢サイダーを広めたことは、あまり知られていない。地元で見直されつつある先駆者とは……。【大澤孝二】

 「三ツ矢サイダー」の中興の祖とも呼ばれているのは、中谷整治さん(1870~1919年)だ。出身地に近い大古区民会館の向かいには、功績を記す看板が立てられている。看板設置を提唱し、実現にこぎつけたのは、2012年から12年間、大古区長を務めた冷水喜久夫さん(73)。「当時の実業界で名をはせただけでなく、地元の優秀な学生の進学や就職も世話したという中谷さんを付近の住民や道を通りかかった人に知ってほしかった」と動機を語る。

 同町の教育委員会に勤務していた当時、中谷さんの存在に興味を示し、中谷さんの親戚などに取材して一族の系譜を追った。しかし、本人の幼少期の記録や自叙伝が残っていないため、人物像に迫るのには苦労を重ねたという。

 冷水さんの調べたところでは、中谷さんは幼い頃から記憶力が抜群で「神童」と呼ばれ、慶応義塾では福沢諭吉から薫陶を受けた。「稲むらの火」で有名な浜口梧陵とも交流していたという。

 卒業後、実業で活躍したが、その手腕を買われて託されたのが、川久保平野礦泉(こうせん)所(現兵庫県川西市)の天然炭酸水「平野水(ひらのすい)」販売事業だった。水を購入する習慣を持たない国内では苦戦していた。1907年に中谷さんは帝国鑛泉(こうせん)を設立し、甘みをつけ、「三ツ矢シャンペンサイダー」を発売した。

 一時売れ行きは伸びなかったが、慶応義塾時代の同窓の助けを借りて、当時はなじみのなかった「バラ売りの割引を認めて全国で販売する」という販売手法を取り入れ、売り上げ向上につながった。

 現在販売しているアサヒ飲料には「水・香り・製法にこだわり、品質を追求し続ける」という企業ポリシーがある。そこには「平野水は必ず国民に愛される」と信じてサイダー作りに専心した創業時の中谷さんの思いが受け継がれている。

 こうした経緯から、アサヒ飲料は白浜町との結びつきを強めている。今月9日には、町と包括連携協定を締結し、町内の小中学校で中谷さんの偉業を伝えるマンガ冊子を配布した。南紀白浜空港には中谷さんと三ツ矢サイダーの歴史をたどる「ラッピング自動販売機」を設置するなど周知を図っている。町側もこの動きを歓迎し、大江康弘町長は「この協定をきっかけに観光振興を強く前進させたい」と期待を寄せている。挑戦する姿勢を貫いた先人が結んだ縁が今、新たな可能性を切り開こうとしている。

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