1954年に米国が実施した水爆実験で被ばくした、静岡県のマグロ漁船・第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが亡くなってから23日で70年の節目を迎える。多くの日本船や実験場所の周辺住民が被災したこの事件は「ビキニ事件」と呼ばれ、日本国内に大きな衝撃を与え、後に原水爆禁止運動のうねりを生み出した。事件を描いた映画「第五福竜丸」(59年公開)が今年、ブルーレイとして復刻された。監督は「原爆の子」や「裸の島」などの作品で知られる新藤兼人さん(1912~2012年)。関係者は「この映画を起点に、世界中に核実験による被ばく者がいることについて考えてほしい」と投げかける。
「事件」5年後、公開
54年3月1日、米国は太平洋・ビキニ環礁で水爆「ブラボー」をさく裂させた。ブラボーは、広島に落とされた原爆の1000倍の破壊力があった。爆心地から約160キロの海上で操業していた第五福竜丸の頭上には、放射能を帯びたサンゴの粉「死の灰」が降り注ぎ、乗組員23人全員が被ばく。乗組員たちは帰港後、入院し治療を受けた。だが、約半年後の9月23日、無線長の久保山さんが「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」と言い残し、40歳で亡くなった。映画では久保山さんを宇野重吉さんが演じ、第五福竜丸の出航から久保山さんの葬儀までをドキュメンタリータッチに描いている。
新藤監督は広島県出身。兵庫県で兵役中に終戦を迎え、復員したふるさとの広島で被爆の惨状を目の当たりにした。こうした原体験から、戦争と平和をテーマにした作品を撮り続けた。
戦後の広島を生きる子どもたちの姿を描いた「原爆の子」公開から2年後、ビキニ事件が起きた。新藤監督は映画化を決意し、準備に取りかかった。新藤監督の次男で近代映画協会代表の新藤次郎さん(75)は「原爆を落とした国が、広島の原爆の1000倍もの威力のある水爆実験を行った。衝撃だったと思います。ビキニ事件は映像として残さねばという義務感があったのではないか」と推し量る。
「第五福竜丸」の製作について、後に新藤監督は著書「新藤兼人・原爆を撮る」(新日本出版社、2005年)の中で次のように述べている。
<「原爆の子」はドラマだが、「第五福竜丸」は記録的にやろうと思った。(中略)事実そのままのシナリオを書き、感情を持った俳優が事実の人を立体化していくという構成。(中略)ビキニ環礁で起きた事件は事実だから、事実をそのまま表現したいと思った>
次郎さんは「『第五福竜丸』はそれまで新藤の実践してきた映画作法と違い、事実を並べる構成にしている。事件を客観的に撮ることで、事実の重さを記録的に残そうとしたのではないか」と分析。そして、「映画の最大の武器は、視覚と聴覚で観客の感情に、ダイレクトに伝えられること。ビキニ事件を知らない人に見てもらいたい」と復刻に期待を寄せる。
記憶の風化進む中
ブルーレイでの復刻を企画したのは、東京都立第五福竜丸展示館(江東区)の管理運営を受託している「第五福竜丸平和協会」の専務理事、安田和也さん(71)だ。記憶の風化が進む中、2021年には、事件の体験を語ってきた第五福竜丸元乗組員の大石又七さんが87歳で亡くなった。安田さんは「今復刻しなければ」と、被ばくから70年となる今年、ブルーレイ化を実現させた。
同展示館ではこれまでも映画の上映会を複数回実施し、新藤監督も生前に訪れた。新藤監督が揮毫(きごう)した「第五福竜丸は生きている」という言葉は今も館内に飾られている。安田さんは「映画を見ると、水爆実験によって命が奪われてしまう理不尽さ、事件の関係者たちの思いが胸に迫ってくる」と話す。
ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区への攻撃は止まらず、今なお世界は核の脅威に脅かされている。安田さんは「映画を見て、改めて核について学んでほしい」と呼びかける。
久保山さんの命日の23日には、同展示館で映画「第五福竜丸」の上映会が行われる。入場無料。また、ブルーレイは同展示館や郵送で購入が可能。問い合わせは同展示館(03・3521・8494)。【松原由佳】
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