1966年に強盗殺人などの容疑で逮捕され死刑が確定した袴田巌さん(88)が26日、58年を経て雪冤(せつえん)を果たす判決を勝ち取った。その瞬間、静岡市葵区の静岡地裁前で喜ぶ支援者の中に、東京拘置所の死刑囚監房で「イワちゃん」「カズちゃん」とお互いを励まし合い、「狭山事件」の冤罪(えんざい)を訴える石川一雄さん(85)の姿もあった。「イワちゃん、よかった。『次は狭山』だ」。自身の再審への決意を新たにしていた。【隈元浩彦】
妻の早智子さん(77)と共に現地に駆けつけた石川さんは、地裁に隣接する静岡県法律会館で朗報を待った。午後2時過ぎ、歓声が入り交じったどよめきが広がった。「無罪」。「やったー」と、支援者から喜びの声が上がった。
「無罪判決は当然のこと。100%確信していましたから」。石川さんは落ち着いた口調だった。ほどなく裁判所が捜査当局の捏造(ねつぞう)を認定したという速報が入った。その時、石川さんの目がうるんだ。「捏造を認めたの? 裁判史上、初めてではないか。一つのハードルを越えたと思う」
63年に狭山市内で女子高生が殺害された狭山事件。石川さん宅から見つかった被害者のものとされる万年筆が決定的な物証とされた。19年目を迎えた第3次再審請求審で弁護側は、インクは被害者が事件当日まで使っていたものとは異なるとする鑑定結果を新証拠として東京高裁に提出し、捜査当局による「捏造」を主張している。それだけに「ハードルを越えた」という感慨につながったのだろう。
袴田さんにかける言葉を問われると、「もう死刑囚じゃない。今も気が張り詰めているようだけど、ゆっくり休んでもらいたい」とねぎらった。
石川さんは1審で死刑判決が下った64年、未決死刑囚として東京拘置所の死刑囚監房に入った。4年後、袴田さんも収監された。集団処遇の時代で、房は自由に行き来できた。当時、石川さんは29歳、袴田さんは32歳。年齢が近いこともあり気が合った。冤罪と闘っていることも分かっていた。「ともに頑張ろう」と、声を掛け合うのが常だったという。
死刑囚監房から、死刑台に向かう46人を見送った。執行は午前中。普段はズック靴の看守は、その日は決まって革靴で「カツン」という靴音が響くだけで緊張感が走った。袴田さんのこんな様子を覚えている。「私の部屋(独居房)にイワちゃんが来て、ちょっと話をしているでしょう。隣からガタンって音がするだけで、ビクリと体を震わせた。未決なのに自分が執行されやしないかって。そんな感じでした」。石川さんは74年、2審で無期懲役判決を受け、一般房に移った。6年間の「獄友」生活だった。
その後、袴田さんは80年から34年間、東京拘置所で確定死刑囚として処遇された。死と背中合わせの日々。石川さんは「つらかったろう。検察は判決を受け入れて、控訴などしないでほしい」と重い拘禁症の友をおもんぱかる。早智子さんは「巌さんは88歳。支えてきた姉の秀子さんは91歳。これ以上人生を奪わないでほしい」と言い添えた。
94年の仮出所から30年。石川さんも、つえが手放せなくなった。先日は転倒し、左腕を痛めた。額のばんそうこうも痛々しい。それでも「『次は狭山』という決意をあらたにして、心を引き締め闘っていく」。既に袴田さんよりも3年長い61年の闘いである。
今回の無罪判決が再審法改正の動きに影響を与えることも期待している。「証拠を検察が独占し、自分たちに有利な証拠しか出さない。再審開始決定が出ても、検察官が不服申し立てをする。これらを早急に変えないと冤罪被害者はいつまでたっても救われない。今回、ようやく再審法の改正に光が当たっている。一日も早く動き出してほしい」。早智子さんもうなずいた。
この日、会話することはかなわなかったが、石川さんは法廷に入る巌さんの姉秀子さん(91)と力強く握手、早智子さんとは抱き合い久しぶりの再会を喜び合った。早智子さんは「本当にご苦労様でした」と、弟に寄り添い続けた秀子さんを気遣った。
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