東京電力福島第1原発事故で帰還困難区域となり、福島県内の除染土を保管する中間貯蔵施設の用地とされた双葉町細谷地区にあった彼岸花が、2017年春に避難指示が解除された川俣町山木屋地区で真っ赤な花を咲かせている。住民同士の交流をきっかけに移植が実現し、故郷に戻れず離ればなれの住民らが再会する場も生まれている。【尾崎修二】
震災当時、細谷の行政区長だった大橋庸一さん(83)は09年、地域の環境美化のため、自宅の裏山に群生していた彼岸花の球根を地区の町道の両脇に150メートルにわたって移植した。元々は太平洋戦争中、神奈川県から疎開してきた医師の家族が、熱冷ましの効能があるとされる彼岸花の球根を持参して植えたものだった。
本格的に沿道の花が咲く前に原発事故が起き、全町民が避難を強いられた。数年後の秋、一時帰宅した住民から「彼岸花がとってもきれいに咲いてたよ」と大橋さんに連絡があった。うれしさと郷愁の念が込み上げた。
そんな中、福島の被災者らが集う対話の場に17年に参加した大橋さんは、山木屋の菅野源勝さん(76)に出会った。山木屋の避難指示解除を受け、専業農家だった菅野さんは「米作りはあきらめるが、四季折々の花をいっぱいに咲かせて人を呼び込みたい」と前向きに語っていた。集いの後、大橋さんが「中間貯蔵施設の整備で彼岸花が埋め立てられてしまうかもしれない」と伝えると、菅野さんは「私の土地にぜひ移植してください」と即答した。
環境省や町役場の許可を取り付け、18年春に約3000株を掘り出して山木屋の畑に植えた。秋になるたびに細谷の住民や中間貯蔵施設に携わる研究者らが集まり、芋煮を食べたりしながら、菅野さんが帰還後に育てたダリアや彼岸花を観賞するようになった。
28日は20人近くが参加。埼玉県上尾市から夫と訪れた亀屋幸子さん(80)は「今も双葉の人と会うと『帰りたいなあ』という会話になる」。細谷の自宅は泣く泣く国に売り、解体後は除染土の保管場に。地区には何年も足を踏み入れていない。
この日は芋煮を作りながら他の参加者と話を弾ませた。「(細谷の人には)自分をさらけ出してなんでもしゃべれる。思い出話もできて、悩みも吹っ飛ぶ。40年近く一緒にいたんだもの」と笑った。
今年は開花のタイミングが合わず、咲いていた彼岸花は1輪だけ。それでも大橋さんは「彼岸花が新たな出会いや再会の場を生んでくれたことがうれしい」と喜ぶ。来週には1万株ほどに増えた彼岸花が見ごろを迎える。国と県が双葉、浪江両町の沿岸部に整備する復興祈念公園の一角に彼岸花の一部を移す「里帰り」計画も思い描く。
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