集団就職に修学旅行……。国鉄(当時)の専用列車はさまざまな子供たちを運んだ。携帯電話のない時代、大学入試会場には合否を伝える電報サービスの受付が並んだ。昭和・平成の中高生を取材した報道写真集「名古屋・青春・時代」(桜山社)には、いつの時代も輝きを放つ若者たちの姿が記録されている。【太田敦子】
出版したのは、「名タイ」の名で親しまれ、愛知、岐阜、三重の東海3県を中心に発行していた夕刊紙「名古屋タイムズ」=2008年休刊=の元記者、長坂英生さん(66)。フリーで執筆活動を続け、名タイが撮影した写真データを保管する「名古屋タイムズアーカイブス委員会」の代表を務める。膨大なデータの中から今回、中学生と高校生の日常を取材した約260枚を本に収めた。
名タイは終戦翌年の1946年に創刊した。戦前の新聞の報道責任を憂え、同じ過ちを犯さないことをメディアとして誓ったという。戦争遺児があふれる中、「社会の宝」である少年少女や若者を励ます記事や事業を、意識して展開した。
大きな荷物を抱え、名古屋駅に到着したおかっぱ頭の女の子たちの写真は、奄美大島から来た集団就職の一団。撮影した59年当時、中学卒業生たちは「金の卵」と呼ばれ、愛知をはじめ都市部の高度成長を支えた。71年にも鹿児島県から新幹線で名古屋入りした一団を掲載している。
一方で、72年の紙面には名古屋発の新幹線車内でトランプを楽しむ修学旅行生の姿もある。東海地方では71年から、新幹線による修学旅行が始まった。
戦後の第一次ベビーブームに生まれた子供たちが中高生だった60年代。「マンモス校」の校庭、校舎には子供たちがあふれていた。名古屋市中区の中学校で撮影した掃除の様子は、みな肩が触れんばかりだ。名古屋発祥の大手予備校「河合塾」の入学式には、北海道から沖縄まで全国の6600人が集まり会場を埋め尽くした。
60~70年代、学生運動の波が高校に押し寄せた。69年の名古屋大入試は東大入試が中止された影響を受け、競争率は5・4倍と過去最高に。愛知県立明和高では70年開催の大阪万博に反対し、名古屋の名門私立である東海高では高校生の政治活動を制限・禁止するとした文科省(当時)の見解を巡り、それぞれ生徒たちがハンガーストライキを決行した。
平成に入ると学生服に変化が現れた。修学旅行で海外を訪れる高校が増えたことも背景にある。男子の詰め襟、女子のセーラー服から、男女ともブレザータイプに人気が移り始めた。百貨店が開いた制服ファッションショーの様子が報じられている。
この他にも入学・卒業式、初夏の衣替え、甲子園での熱戦など毎年繰り広げられる学校生活が、丁寧に記録されている。生徒たちの表情は生き生きとはじけるようだ。
「時代は変わりましたね」。出版にあたり写真を選定した長坂さんはこう話す。「当時の学生運動は拙いながらもがんばっていたなと思う。かつて大学の合格発表風景を取材してきたが、現在は基本的に(合否を)パソコンで調べるようになった」
だが、変わらない部分もある。「今も町を歩いていると女子高校生はキャピキャピとしているし、男子高校生も中学生も大きな声で友達としゃべっている。そういった若いエネルギーは変わらないと思う」。それでも少子化は進み、若者の生きづらさを耳にするようになった。「もっと若い人たちを大事にする社会になってほしい」と改めて願っている。
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