航空母艦瑞鶴之碑の傍らに立つ「軍艦瑞鶴会」世話人代表の松木祥子さん=奈良県橿原市の橿原神宮境内で2024年9月25日、皆木成実撮影
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 太平洋戦争末期の比レイテ沖海戦(1944年10月20~25日)で「おとり役」を務めて撃沈され、約1700人の乗組員の半数以上が戦死した航空母艦「瑞鶴(ずいかく)」。慰霊碑は意外にも海なし県・奈良の橿原神宮若桜友苑(橿原市)に建立されており、沈没した10月25日に毎年慰霊祭が行われている。大戦の犠牲を語り継ぎたいと、遺族会は沈没80年の節目の今年、広く一般の参列を呼び掛けている。

 高さ約2・5メートルの慰霊碑には航空母艦瑞鶴之碑と刻まれ、船影がレリーフされている。碑文には「この碑に参ずるひとびとは犠牲の忠魂を後世に伝えられよ」と建立意義が刻まれている。

 建てられたのは81年。なぜこの地だったのか。若桜友苑は旧海軍甲種飛行予科練習生(予科練)の13期生戦没者慰霊碑建立のため、73年に開設した慰霊施設。予科練の訓練基地は天理市にあり、瑞鶴撃沈後の終戦間際、生存者がこの基地で教官をしていた縁がきっかけとなった。

 レイテ沖海戦で瑞鶴は空母4隻などで構成する小沢機動部隊の旗艦として出撃。比北部ルソン島のエンガノ岬沖の海戦で米軍機から多数の魚雷を受けて沈没し、乗組員の半数が船と運命を共にしたほか、一部生存者を救助した駆逐艦「初月」も撃沈された。同機動部隊は戦艦「大和」などがレイテ湾に突入するため、敵艦を比中部レイテ島から遠ざける「おとり」。開戦時の真珠湾攻撃(41年12月)から活躍した「殊勲鑑」瑞鶴が十分な艦載機もなく、沈没前提で出撃させられた点が遺族の無念になっている。

 政府は中期防衛力整備計画(2018年策定)などに基づき、大型護衛艦「いずも」「かが」へ戦闘機配備を進めており、戦後80年を経て日本は事実上の空母保有国となる。元乗組員の娘で遺族会「軍艦瑞鶴会」世話人代表の松木祥子さん(68)=橿原市=は「生き残った父も二十数年前に亡くなった。沈没前提の作戦に参加し、戦争の悲惨さを繰り返し訴えていた。日本の将来を考える上でも若い人は先の大戦の犠牲を学んでほしい」と話している。

 慰霊祭は25日午後1時半開始。沈没した同2時14分に黙とうし、平和を祈念する。録音による海戦生存者の肉声披露もある。参加無料だが、供花料奉納を呼び掛ける。問い合わせは橿原神宮(0744・22・3271)へ。【皆木成実】

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