現場海域で犠牲者に花を手向けて冥福を祈る遺族ら=愛媛県今治市の伯方島沖で2024年11月3日午前11時59分、松倉展人撮影

 終戦で復員した元軍人らを乗せて広島・尾道港から愛媛・今治港に向かった民間連絡船「第10東予丸」が転覆、沈没し、400人以上が犠牲になった事故から6日で79年を迎える。八十回忌となる慰霊祭が3日、愛媛県今治市の伯方島であり、遺族や住民の有志が現場海域で花を手向けた。

 同市の古川功さん(81)は、赤茶色になった1枚の写真を今も大切に自室に飾っている。父唯市(ただいち)さん(当時25歳)は、現在の韓国・済州島で終戦を迎え、復員の途で犠牲になった。写真は、唯市さんの遺体が確認された際、胸ポケットに入っていた1枚。功さんの満1歳記念に写真館で撮ったものだ。「早く帰ろうと思い、船に乗り込んだはずです」。功さんは父の胸中を想像する。

 唯市さんの弟進さんはここ数年、慰霊祭への出席を生きる支えとしていたが、2023年11月、96歳で亡くなった。功さんら親族が進さんの遺品を整理したところ、1枚のメモが見つかった。

「東予丸」の沈没地点

 「死のしらせがあり、当日より伯方島へ行く」。事故後、進さんは1カ月近く島に寝泊まりして潜水士らが引き揚げた遺体を探し回り、捜索打ち切りの前日にようやく確認することができた。メモにはその経緯とともに、「最後に本人と確認したのでお骨にして連れて帰った」と記されていた。進さんは鉛筆書きのメモを終生身近に置いていたとみられ、功さんはこの日の慰霊祭に携えた。

 事故で犠牲になったのは、中国東北部や朝鮮半島で終戦を迎えた旧軍人ら。1945(昭和20)年11月6日朝、定員の3倍の乗客と荷物を満載した第10東予丸は伯方島沖で突風を受けて転覆、沈没した。145人は救出されたが、400人以上は家族との再会を目前に非業の最期を遂げた。事故は本四架橋運動のきっかけの一つになった。

 慰霊の法要は七十回忌の2014年以降は毎年、今治市伯方町木浦にある禅興寺で営まれている。阿部信宏住職(50)の祖父で、事故当時住職だった故信隆(しんりゅう)さんが多くの犠牲者を浜辺で弔った縁で、寺には加筆訂正を重ねた3冊の犠牲者名簿が引き継がれ、慰霊塔が建つ。【松倉展人】

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