天皇陛下の大おばにあたる三笠宮妃百合子さまが、15日朝早く、老衰のため逝去された。
皇室で最高齢の101歳だった。
約8カ月ぶりにお住まいに戻られる
赤坂御用地前には朝から報道陣などが集まり、百合子さまのご遺体は住み慣れたお住まいに戻られた。
宮内庁の諸橋省明宮務主管は会見で、「崇仁親王妃百合子殿下には、本日午前6時32分、聖路加国際病院において薨去(こうきょ)されました」と述べた。
この記事の画像(12枚)百合子さまはここ数日、徐々に全身の機能や意識の低下が進み、それでも呼びかけにうなずくなど、ご家族とお別れの時間を過ごされていたが、宮内庁によると、今朝から血圧が下がり、午前6時32分、老衰のため安らかに息を引き取られたという。
午前9時半ごろ、百合子さまのご遺体は入院していた病院を後にした。
孫の彬子さまも付き添われ、2024年3月に入院して以来、百合子さまは約8カ月ぶりにお住まいに戻られた。
百合子さまの逝去により皇室の構成は16人となり、訃報を受け、天皇陛下は午前中に予定していた公務を取りやめ、皇后さまと共に、15日にも百合子さまを弔問される見通しだ。
“激動の時代”生き抜かれた生涯
百合子さまは、上皇さまのおじにあたる故・三笠宮さまの妃で、記録の残る皇族では最長寿の101歳。
大正・昭和・平成・令和と、激動の時代を生き抜かれた生涯だった。
3月に入院後は、口から水分や食事を取ることはできないものの、落ち着いた状態が続き、6月には101歳の誕生日を迎えられた。
前日にも病院を訪れた孫の彬子さまは、そのときの様子について、「きょう100歳最後の日でございますねとお話ししたら、うん、とおっしゃっていらっしゃいましたし、毎日リハビリをなさって」と明かされた。
翌日の誕生日当日には、ご家族から病院で祝福を受け、つい最近まで車いすに座るなど、体調は比較的安定されていた。
空襲により宮邸が全焼し、5人のお子さまに恵まれるも、長男の寬仁さま、次男の桂宮さま、三男の高円宮さまと3人の息子に先立たれるなど、大きな悲しみを何度も経験されたご夫妻。
百合子さまは、多才な三笠宮さまの活動を献身的に支えられた。
スケートなどの普及に力を注いだ三笠宮様がスケートを披露した際には、小学生だった天皇陛下とともに、その演技をご覧になったこともあった。
そして「オリエントの宮さま」として親しまれた三笠宮さまの研究者としての活動も支え、75年の長きにわたり、連れ添われた。
結婚70周年を迎えた2011年には、文書で感想を寄せられた。
百合子さまは「余り頑健でない私を、いつもいたわってくださった宮様のおかげで今日まで長生きできましたこと感謝の言葉もございません」と記されていた。
母子愛育会の総裁を長年務め、母子の健康に心を寄せられたほか、日本文化の普及にも尽力された。
度重なる病気を乗り越え、2024年3月に入院するまでは、お住まいの宮邸で新聞各紙に目を通したり、テレビで野球の中継を見るなど穏やかな日々を過ごされていた。
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