熊野灘を震源とするマグニチュード7.9の昭和東南海地震が発生して7日で80年を迎える。三重県南部には大津波が押し寄せ、リアス式海岸が広がる波穏やかな南伊勢町も大きな被害を受けた。6歳で被災し、今も町内に暮らす小山厚(あつ)さん(86)は1986年、48歳の時に幼いころの体験を書き留めていた。80年前に命拾いした体験から、いつ起きるかわからない地震への備えの大切さなどを38年前に記した思いを改めて聞いた。
小山さんの自宅の仏壇には「私(六才)東南海地震の記憶」と書いた茶封筒が置いてある。「何で書いたのか、何を書いたのかも忘れた」と照れ笑いしながら、80年前の記憶をしたためた便箋5枚の手記に目を通し始めた。
太平洋戦争が激化していた44年12月7日午後1時36分だった。海風と陽光を受ける南伊勢町の波静かな海に地震が発生し、しばらくして大津波が押し寄せた。
ミカンの産地で知られる内瀬(ないぜ)地区で育った小山さん。その日は小春日和で、友だちと家の近くで土いじりをして遊んでいた。
「東の方角からゴオーという今までに聞いたことのないような、ものすごい音がして地上が揺れ動いてきました」
家の外に飛び出した祖母の叫びに、家族は避難を即断した。
「井戸水が干上がっている。これは大きな津波が来る証拠や、早く逃げやないかん」
避難した高台から見下ろすと、恐ろしい光景が広がっていた。鳥居があり、住民の信仰を集めていた約300メートル沖合の村島まで潮が引いているのが見えた。
「伊勢路川の河口あたりから『村島さん』まで潮が引き、しばらくすると川上に水が登り、小屋、木、牛までが流されていくのを覚えています。赤く濁った濁流があらゆる物をのみこんで流れていったのでしょう」
被災後の生活も記していた。
「夫の留守を守り女手ひとつで大変な苦労だったと思います」
「戦争がだんだん激しくなり、地震と戦争が重なって復興も思うようにできなかった」
「この先、戦争はあってはなりませんが、地震はいつ起こるかわかりません。経験のない若い世代が多くなってきました。常に備えだけは十分に、被害が最小限ですむようにしたいものです」
母をねぎらいながら、被災の影響で戦後の復興が思うように進まなかった実情や災害対策の重要性を記していた。
小山さんは記憶が鮮やかによみがえるように、地震発生時は「蔵の屋根瓦がな、ビュン、ビュンと落ちた」と手ぶりを交えて話し、「入り組んだ地形に津波が押し寄せた」と振り返った。今もなお、枕元に着替えを用意してから就寝するという。「備えることは大切なこと。地震を忘れないでいるということ」と何度も繰り返した。
甚大な被害も 制限された報道
昭和東南海地震は戦時下の発生だったため、被害に関する報道が制限されていた。愛知、三重、静岡3県を中心に1200人を超える死者行方不明者が出たとされるが、翌日の新聞は「三重県一帯にわたって強震があった。震度は歩行困難な程度で南部方面の一部に津波があった」とだけ報じた。
町がまとめた「南伊勢町地域防災計画」によると、旧南勢町の地域では地震発生から約40分後に津波が押し寄せた。溺死2人、流失家屋3棟の被害に加え、家屋や田畑の浸水が多数あり、漁船や漁具、人畜の被害も甚大だったという。
小山さんの「記憶」にも家や田畑が潮水の被害を受けたという記述がある。町でも80年前の地震に関する記録が少ないため、貴重だと町の担当者は話す。
8月には日向灘で起きた地震を受けて南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)が初めて発表された。昭和東南海地震と震源が重なるとされる南海トラフ地震では、南伊勢町で予想される津波の高さは最大で12メートルで、最短8分で到達すると予測されている。
小山さんの祖母が叫んで促したように、町は早めの避難行動がとれるよう「手ぶら避難」を呼び掛けるほか、住民の高齢化に伴い、避難路の手すりの整備などを進める。【下村恵美】
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