10銭陶貨(直径2・19センチ、重さ2グラム)=造幣局提供

 京都市で今秋、陶器の貨幣が大量に見つかったのが明らかになった。太平洋戦争末期、極度の金属不足に陥った日本で代用品として製造され、終戦で使われることなく廃棄された「陶貨」だ。戦争の「落とし子」と称された幻の貨幣を、製造工場の一つが置かれた佐賀県有田町で追った。

 有田町は豊臣秀吉の朝鮮出兵で大陸から連れてこられた陶工により、17世紀初めに日本で初めて磁器の生産が始まった地だ。まず、約400年にわたり磁器の原料「陶石」が採掘されたという「泉山磁石場(じせきば)」の近くで暮らす篠原恵美子さん(94)を訪ねた。

 篠原さんの父英男さんは陶磁器の卸問屋を経営し、遠く旧満州(現中国東北部)まで営業に出かけていた。1945年3月に召集されると、旧制武雄高等女学校の生徒として長崎の工場に動員されていた篠原さんは許可を得て帰宅。すると「正面玄関の脇に『造幣局有田出張所』という見知らぬ看板が掛かっていた」。

 実はその頃、英男さんは有田で陶貨の製造を任された「協和新興陶磁器有限会社」の幹部を務めていた。経緯は不明だが、陶製のタイルやボタンを作る工場を経営していた知人に声をかけ、一緒に1銭陶貨を造っていたのではないか、と篠原さんは考えている。

父英男さんが残した、2枚の1銭陶貨を収めた小箱を手にする篠原恵美子さん=佐賀県有田町で2024年10月22日午後0時38分、西脇真一撮影

 英男さんが残した2枚の陶貨を収めた小箱を手に、篠原さんは「父は戦後も陶貨のことを何も言わなかった。ただ、人づてに『(陶貨が日の目を見ず、知人が)気の毒やった』と言っていたと聞いた」と話す。

 そしてこうも言う。「戦争中は勝つとしか思っていなかったが、その後、陶器でお金を造っていたと知りびっくりした。そんなにも日本は疲弊していたのか」

 37年に日中戦争が始まり、翌38年には国家総動員法が制定されるなど、日本では戦時経済統制が強まっていった。同年、臨時通貨法が制定され、ニッケルや青銅に代わってアルミニウム青銅や黄銅の貨幣が発行された。

 「造幣局百年史」(76年発行)は「貨幣素材は次第に悪化と軽量化の道を辿(たど)って行った。それは丁度(ちょうど)日本の国運の転落を端的に象徴していた」と記す。

 44年10月には「陶貨製造準備委員会」が設置され、同12月には45年度の貨幣製造計画が決定。10銭陶貨5億枚▽5銭陶貨5億枚▽1銭陶貨7億枚――などの製造が決まり、デザインを決める陶貨図案審査委員会には大分県生まれの彫刻家、朝倉文夫らが名を連ねた。

篠原恵美子さんが寄贈した「造幣局有田出張所」の文字が残る看板=佐賀県有田町の町歴史民俗資料館で2024年10月22日午後4時15分、西脇真一撮影

 45年4月には、①既存設備を多く利用できる②石炭の確保が容易③空襲の危険が少ない――などが考慮され、製陶業の盛んな地域にある3カ所が請負工場に指定された。それぞれに造幣局出張所も置かれた。

 うち1カ所が2024年10月、50万枚を超える1銭陶貨が見つかった歯科機器製造・販売会社「松風」と関係する、京都市の「松風工業」。もう1カ所が、愛知県瀬戸市の「瀬戸輸出陶器」。そして残りの1カ所こそ、有田町の「協和新興陶磁器」だった。

 陶器の貨幣と聞くと驚くが、実は海外に先例があった。

 美術史家の櫻庭(さくらば)美咲さんによると、1914年の第一次世界大戦勃発後、ドイツでは経済が混乱して小銭不足に陥った。金属も不足する中、非常用の貨幣として陶貨製造のアイデアが生まれた。

 例えばマイセン磁器で知られるザクセン州では、21年にマイセンで造られた陶貨の流通を決め、実際に使われた。ただ、22年には一転して、こうした非常用貨幣の製造を禁止。23年には別の代用貨幣が導入され、陶貨は消滅したという。

京都市内の倉庫で見つかった木箱に入った陶貨=造幣局提供

 造幣局百年史によると、京都では10銭陶貨と1銭陶貨を1日300万枚、瀬戸では5銭と1銭陶貨を1日200万枚、有田では1銭陶貨を1日100万枚製造する目標が設定されていた。

 陶器だけあって、原料の配合割合は各地で異なる。有田では三間坂粘土60%、泉山石と赤田粘土が各15%などと決められた。製造工程は統一され、原料を微粉砕して加水、乾燥させて成型し、1250度で焼成――とされた。

 だが、戦局は悪化する一方だった。

 45年6月の大阪への空襲で、造幣局の工作工場が被災。「改造中の陶貨幣製造機が焼け損じ」(百年史)と、当初は3工場での製造も順調とはいかなかったようだ。それでも7月に入ってから終戦までに瀬戸で1300万枚、京都で200万枚が製造された。

 一方、有田は1000枚の試作にとどまったという。その理由は百年史に書かれてはいないが、毎日新聞西部本社の「激動二十年 佐賀県の戦後史」(65年発行)にヒントがある。

 陶貨の製造機械は、造幣局が兵庫の工場に発注して送ってくることになっていた。だが、延び延びになり20年8月初めの阪神地方の空襲で機械工場が破壊されだめになった、とある。そのため、有田では地元にあったプレス機が代わりに使われたとされ、製造も滞ったとみられる。

 結局、陶貨を流通させるには、まだ1000万枚が不足していると判断された。発行を見合わせているうちに8月15日の終戦を迎え、陶貨の大半は粉砕廃棄されたとされる。

 1銭陶貨や篠原さんが寄贈した「造幣局有田出張所」の木製看板は今、有田町歴史民俗資料館に収蔵されている。使い古された今の10円玉のような茶色をした1銭陶貨は直径1・5センチ、重さ0・8グラム。表面にはそれぞれ富士山と「壹」の文字、桜花が入っている。

「大日本」の文字や富士山に「壹」と入った1銭陶貨。左端は無地で試作品とみられるという=佐賀県有田町の町歴史民俗資料館で2024年10月22日午後4時4分、西脇真一撮影

 だが、学芸員の永井都さんは「有田では、進駐軍が来た時に処罰されるという話が広まり、いろんな資料が処分されたと聞いている。製造した会社の成り立ちを含め、分からないことが本当に多い」と話す。

 資料館には、陶貨の製造に使ったとして寄贈されたプレス機もある。永井さんは「当時の日本は、よほど追い詰められていたのだろう。一方で陶貨の生産地に選ばれたのは、有田にそれだけの技術力があったからでもあるだろう。こういう歴史があったことを、もっと広く知ってもらえたら」と話す。

 百年史は陶貨を「戦争の落とし子」と表現し、こう書き記している。「敗戦の日が1週間も遅れていたら国民の財布の中に収まり使われていたかも知れない」【西脇真一】

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