11月24日と25日の2日間、101歳で亡くなられた三笠宮妃百合子さまの通夜が三笠宮邸で営まれました。白い布で覆われた部屋に安置された柩のそばには、天皇皇后両陛下や上皇ご夫妻からの榊などが供えられ、参列者を入れ替えて営まれた通夜の1回目には喪主を務める孫の彬子さま、秋篠宮ご夫妻などが参列され、部屋の明かりが落とされると黙祷が捧げられました。
この記事の画像(17枚)記録が残る皇族の中で最高齢だった百合子さま。大正・昭和・平成・令和と激動の時代を歩まれました。
大正12(1923)年6月に、高木正得子爵の次女として生まれた百合子さま。女子学習院本科を卒業した昭和16(1941)年10月に18歳で昭和天皇の弟・三笠宮崇仁さまとご結婚。ほどなくして太平洋戦争が始まります。空襲でお住まいが焼け、防空壕で生活されたこともありました。
ご夫妻は、長男の寬仁さまをはじめ3男2女に恵まれ、百合子さまは、母としてお子さま方を育て上げられました。ご家族で青森県のりんご園を訪問した際、次女の容子さんと三男の高円宮さまに8ミリカメラを向けられていました。
成長し独立していくお子さま方を見守られてきた百合子さま。次男・桂宮さまの独立を記念した祝宴では、風邪で欠席した三笠宮さまのおことばを代読。「このたび、天皇陛下の思し召しで、宜仁に桂宮の宮号を賜り独立いたしましたこと心から感謝いたしております」と述べられました。
百合子さまは三笠宮さまの多彩な活動をサポートされました。「古代オリエント史」を研究する三笠宮さまが大学で講義する時には、資料整理やスライド係として助手を務められました。海外の調査旅行にも度々同行し、仲睦まじい姿で国際親善にも努めてこられました。
女性皇族として、様々な活動に取り組まれた百合子さま。長年、日本赤十字社の名誉副総裁を務めたほか、民族衣裳文化普及協会などの名誉総裁として日本文化の普及にも尽くされました。
母と子の健康づくりに取り組む「母子愛育会」の総裁は、平成22(2010)年9月に87歳で退任するまで63年にわたり務められました。最後の出席となった4月の『愛育班員全国大会』では、「今後とも皆さんが力を合わせて、愛育班活動発展に意を尽くされ、健康で明るい地域づくりを推進されますよう、一層のご活躍を希望いたします」とあいさつされました。
一方で、長男・寬仁さま、次男・桂宮さま、三男・高円宮さまに相次いで先立たれ、深い悲しみを何度も経験されました。
結婚70周年を迎えた平成23(2011)年10月、文書で感想を寄せられたご夫妻。三笠宮さまが「顧みれば、70年間、陰になり日なたになり私を助けてくれたのは、何といっても妻百合子であった」と綴られたのに対し、百合子さまは「余り頑健でない私を、いつもいたわってくださった宮様のおかげで、今日まで長生きできましたこと感謝の言葉もございません」と記されました。
その後、平成28(2016)年10月、三笠宮さまが100歳で亡くなられてからは、当主として宮家を守り続けてこられた百合子さま。2023年の新年一般参賀には、車いすで参加し元気なお姿を見せられていました。
この半年後に100歳を迎え、「これからも人々の幸せを祈念しつつ、日々を過ごしてまいりたいと存じます」と思いを記されました。
晩年は、孫やひ孫に囲まれながら穏やかな日々を過ごされた百合子さま。18歳で皇族となり、80年以上にわたり皇室を支えられた生涯でした。
11月26日、本葬にあたる「斂葬の儀」当日の朝、百合子さまの柩は、長年住み慣れた宮邸を後にし豊島岡墓地へ。途中、皇居・大手門前では、宮内庁職員などが深々と一礼して車列を見送りました。
「斂葬の儀」には、秋篠宮ご夫妻や両陛下の長女・愛子さまなどの皇族方や政府関係者など、約500人が参列。司祭長が弔辞に当たる祭詞を読み上げ、両陛下と上皇ご夫妻の使者に続き、喪主の彬子さま、そして皇族方が拝礼し最後のお別れをされました。また、一般の拝礼には900人余りが訪れ百合子さまを偲びました。
夕方、火葬された百合子さまのご遺骨は、75年間連れ添った夫・三笠宮さまと同じお墓に納められ、普段使っていた食器や洋服、愛用の漢字パズル、大切に保管されていたお子さま方の乳歯や、家族写真なども一緒に納められました。
翌27日、皇室の慣例で葬儀に参列しなかった両陛下は、百合子さまの墓所を初めて参拝されました。
それぞれ玉串を捧げ深く拝礼した両陛下は、お帰りの際、喪主の彬子さまに歩み寄り悲しみに寄り添われていました。
(「皇室ご一家」12月1日放送)
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