阪神大震災から30年を前に、神戸市中央区の「慰霊と復興のモニュメント」で14日、銘板追加式典が開かれた。21人の銘板を加え、突然人生を絶たれた家族、復興に尽力した功労者。天国に旅立った人たちに、親族らが鎮魂の思いを込めて献花した。
祖父の名前を残せて良かった
神戸が好きだった祖父の名を、神戸に残してあげたい。剪画(せんが)作家のとみさわかよのさんは、神戸大名誉教授だった多田(ただ)英次さんの銘板を張り付けた。祖父が笑っている気がした。それと同時に、自分のある気持ちにも区切りが付いた。
「プレゼントのパジャマで外出しちゃうんです」。思い出すと笑みがこぼれるほど、変わった一面を持っていた。パンや紅茶を好む「ハイカラじいさん」。神戸市東灘区の自宅の至る所に飾られた絵画を見て、とみさわさんは美術の道を歩み出した。
大学受験を控えた頃、優れた作品を解説する「名画を見る眼」という新書を手渡された。「そういう研究の道もある」。論理的な助言に共感し、大学で美学や美術史を学んだ。
震災を機に多田さんは半壊になった自宅を離れ、兵庫県宝塚市の叔母宅に身を寄せた。「神戸の街はどう?」と気にかける祖父を案じていた矢先、心不全で亡くなった。87歳。丸1年たった1996年1月19日だった。
とみさわさんは祖父が神戸で最期を過ごせなかったことが心残りとなった。当時住んでいた群馬県から神戸に戻り、「被災者の話を伝えていこう」と復興を遂げる街並みを描き続けた。「画家になって神戸の街並みを描きたい」。そう告げた時に喜んでくれた笑顔は今も鮮明だ。
銘板に刻むかどうかは「直接命を奪われた人が大勢いる場に連ねていいのか」と迷い続けた。震災の影響で大切な人を失ったつらさを口にしづらいジレンマもあった。
それでも決心したのは、年月とともに被災経験のある人が次々と亡くなっていくからだという。「生々しい記憶がなくなり、震災が歴史となっていく。その生々しさを残す最後の節目なのでは」
この日、在りし日の多田さんの肖像画を持参した。「神戸に祖父の名を残せたと実感が湧いて、思っていた以上にほっとした。またこの場所で会いたい」。胸につかえていたものがすっと消えた気がした。【大野航太郎】
ネット結成、市民主体の支援
都市計画の専門家、小林郁雄さんも震災からの復興に尽力した功労者の一人だ。1986年にまちづくり会社「コー・プラン」(同市東灘区)を設立。震災後は建築家や研究家らと「阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク」を結成し、市民主体のまちづくりを支援した。10月2日、79歳で他界した。
がれきに埋まる被災地にヒマワリやコスモスの種をまく「阪神市街地緑化再生プロジェクト」(がれきに花を咲かせましょう)に取り組んだ同社役員の天川佳美さん(74)=同区=は50年間、小林さんの下で働いた。「都市計画を学び、市民目線で社会に役立てたのは小林のおかげ」と感謝する。
小林さんの妻眞弓さん(80)が銘板を張り付けた後、2人とも「亡くなった実感はまだ湧かないです」と故人を惜しんだ。【山本康介】
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