「仲良くやってるか」。阪神大震災の犠牲者らの名を刻む「慰霊と復興のモニュメント」(神戸市中央区)の地下空間に足を踏み入れた兵庫県芦屋市の医師、兒玉(こだま)隆之さん(55)は姉と両親の銘板を所定の位置に加えると、心の中で語りかけた。「あの日を境に僕たち家族は人生が変わってしまった。震災さえなければ……」
神戸市東灘区の自宅で被災した。1階で就寝中、2階部分が崩れてきたが間一髪で助かった。父順三さんは自力で脱出。閉じ込められた母章子さんは近所の人に助けられた。3人ともけがはなかったが、同県西宮市から自転車で駆け付けた兄の言葉に絶句した。「寛子たちがあかんかった」
西宮に住む姉の小亀(こがめ)寛子さん(当時36歳)は自宅の下敷きとなり、夫と2歳の長男と共に犠牲になった。助かったのは、寛子さんが覆いかぶさり守った4歳の長女だけだった。
寛子さんは学生時代、スキーやダイビングを楽しみながら薬剤師になる夢を実現した。産業医の順三さんにとって、同じ医療分野で働く自慢の娘。2人で杯を傾けながら、たわいのない話題で笑い合っていた。娘に先立たれた喪失感は大きく、父は酒量が増えた。数年後に肝臓がんが見つかり2004年5月、76歳で亡くなった。
章子さんは家庭を築いた寛子さんと、料理や子育てについて毎日のように電話していた。普段は物静かだが、火葬場で娘たちを見送る際「先に逝ったらあかん」と何度も叫んだ。夫の死後は衰えが進み、一人残された孫娘を寛子さんと勘違いすることも。認知症と診断され、21年に老衰で息を引き取った。87歳だった。
今回、銘板に姉ら3人の名を残そうとしたのは、神戸市外の犠牲者らも対象となることを知ったからだ。妻(51)と長男(11)を伴い、銘板をそっとなぞった。
震災以来、家族について口にすることは減り、触れられるのも嫌だった。だが、30年近い月日の流れに「気持ちの整理がついたのかもしれません。分からないけれど」と語る。
一生懸命生きた証しを残そうと日記を付け続けてきた。「やっと3人を並べてあげられ、達成感みたいなものがある」。この日のことを、そう書き記そうと思っている。【木山友里亜】
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