空襲で焼けたとみられる瓦の中には、寺の紋が入った瓦の一部もある=宮崎県都城市で2024年12月11日、下薗和仁撮影
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 宮崎県都城市の攝護(しょうご)寺境内で多数の焼けた瓦が地中から見つかった。終戦間際の1945年8月の都城大空襲で焼失した本堂などに使われていたとみられる。同寺は「戦後80年の節目を目前に、地中から再び姿を現した瓦が戦争と平和を考える一助となれば」と一般公開を検討している。

 同寺によると、当時の本堂は1912年に完成し、間口約30メートル、奥行き約45メートルに及ぶ大建築物だったという。大空襲では本堂をはじめ回廊や中門、書院などが焼失した。戦後の56年に新しい本堂が再建され、2020年に現在の本堂に建て替えられている。

空襲で焼けたとみられる多数の瓦が見つかった新納骨堂建設現場=宮崎県都城市で2024年12月11日、下薗和仁撮影
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 多数の焼けた瓦は11月下旬、新納骨堂の建設工事で、本堂横の境内を重機で掘削中に深さ約1メートルの地中から出てきた。瓦の多くは高熱によって黄色っぽく変色しており、同寺の紋が入った軒丸瓦も含まれていた。そのため、空襲で焼失した本堂などに使われていたと考えられるという。

 大戦末期、飛行場があった都城は繰り返し攻撃を受け、大空襲では50人以上が犠牲になった。同寺職員の松元章徳さん(38)は「戦後80年の節目を前に見つかったのも何かの縁。空襲の惨禍を伝える資料として一般公開を検討したい」と話す。【下薗和仁】

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