沖縄戦を指揮した日本軍第32軍が那覇市の首里城地下に造った「第32軍司令部壕」を巡り、県は19日、保存・公開の基本計画の素案を示した。第1坑口周辺を2026年度、第5坑口周辺は27年度から整備過程を含めて暫定公開し、最終的に30年度に公開する方針。第5坑道も30年度に公開する予定だ。那覇市内で開いた保存・公開基本計画検討委員会で明らかにした。
第1坑口は劣化防止のため埋め戻して保存する方針。遊歩道を設置し、地中に埋まっている坑口と坑道をイメージできるよう、デジタルジオラマなどの先端技術を活用した公開方法を検討する。
第5坑口周辺は急傾斜地になっているため、見学者が坑口まで安全に移動できるように手すりや階段を整備する。
第5坑口については岩盤の崩落や壕の風化・劣化を防ぐため坑口全体を覆う建物を整備する。地下約1・5メートル〜2メートルの深さに出土した壕構築時に使用されていたと考えられるトロッコレールの軌道は、ガラス張りで見せる。
第5坑道の一部は、安全性を十分確保した上で、坑道内部に見学者が立ち入りできるように整備をする。
2029年度に開設予定の展示施設は、沖縄県立芸術大学芸術文化研究所の駐車場の一部に建設する。
玉城デニー知事は「壕の保存、公開の取り組みを通して沖縄の風土と歴史の中で培われてきた平和を希求する心を広く国内外に発信し、沖縄戦の実相と教訓の次世代への継承を進めるべく施策に取り組んでいく」とあいさつした。
第32軍司令部壕は、日本軍が首里城地下約30メートルに掘った全長約1キロの壕。総勢千人余の将兵と県出身の軍属・学徒隊、「慰安婦」が雑居。五つの坑道で結ばれ、作戦室や無線室などの施設、トイレや浴室も造られた。日本軍は1945年5月末、南部・摩文仁への撤退を開始し、主要部分を破壊した。
県は「平和教育の一つの拠点」「物言わぬ語り部」として32軍壕の保存・公開に向けた取り組みを進めている。11月29日には壕の一部が県の史跡に指定された。
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首里城が焼失して3年。あの時、沖縄タイムスで事件・事故を取材する社会部の警察担当記者(通称・サツ担)2人は沖縄のシンボル焼失を目の当たりにした。泣き崩れる住民、消火活動に奔走する消防隊員、原因究明に尽力する捜査員―。当時の取材メモを読み直し、写真とともにあの日を振り返る。
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