67歳ごろの松浦武四郎の肖像写真=松浦武四郎記念館提供

 三重県松阪市出身の探検家で北海道の名付け親で知られる松浦武四郎(1818~88年)は幕末から明治維新にかけての激動の時代を生きた。鎖国から開国に動き出す日本の一大転換期に活躍した姿にスポットを当てた企画展「武四郎と尊王攘夷(じょうい)」が松阪市小野江町の松浦武四郎記念館で開かれている。【橋本明】

 展示されているのは重要文化財を中心にした28点。武四郎が描いた「樺太地図南部」(縦2・4メートル、横1・6メートル)は川や地形が細い線で丁寧に描かれ、地名がびっしり。中には「伊勢大神宮勧請」、「熱田大明神勧請」と記されており、武四郎はこの地を日本領土と主張するため、伊勢、熱田の両神宮の分社建設を構想。神官との交流が深く、幕府への上申書も残っているところから計画は歩み出していたという。

樺太地図南部。多数の地名に加え、海上に伊勢大神宮、熱田大明神の書き込みがある=松浦武四郎記念館提供

 ロシアの南下政策に脅威を感じた武四郎は蝦夷地(えぞち)に関心を持ち、28歳からの13年間に6度にわたって入った。地図は、アイヌの人々の協力を得て現地を探査した成果の集大成版だ。

 展示を通して、幕末の偉人らと交流した様子も伺える。筆頭は吉田松陰。江戸の武四郎宅を尋ねた松陰と夜明けまで海防論を交わし、一枚の布団で寝たという逸話があるほどの仲だったと言われる。

吉田松陰書簡。中央やや右に「幕府ノ腰抜武士」の記述がある=松浦武四郎記念館提供

 「吉田松陰書簡」(1853年)は、松陰が武四郎を大阪の砲術家・坂本鼎斎(ていさい)に紹介するためで、「幕府の腰抜け武士がしきりに和議を訴え候こと」と、米国の「黒船」が浦賀に来航した際の幕府の対応を痛烈に批判した内容が書かれている。ただ、武四郎は大阪に向かったものの、坂本には会えず手紙が残った。

 尊王攘夷の水戸藩との交流も多かった。水戸藩主・徳川斉昭の和歌三首や、同藩の儒学者・藤田東湖が蝦夷地に向かう武四郎に贈った和歌「玉ほこの みちのくこえて 見まほしき 蝦夷が千島の雪のあけぼの」も展示されている。

 ロシアから蝦夷地を守るための調査では幕末の志士たちと交流を深めた。ペリー提督の来航時には尊王攘夷派でありながら、「黒船」ミシシッピ号に乗り込み、条約締結の要人の一人となった。「下田日誌」には、蒸気外輪船の模様が図と共に詳しく書き留められている。

 同記念館の山本命館長は「武四郎の活動を分析すると、日本をどうすれば国を守り残せるかが根底にある。時代の波を的確に捉えた類まれな情報通でもあり、絶妙のバランス感覚が重鎮たちとの交流を広げ、一大転換期の中での活躍に結びついたのだろう」と話す。

 14日午前10時から山本館長の関連講座がある。企画展は5月26日まで。一般360円。20日と21日(県民の日)は無料。月曜休館。ただし29日と5月6日は開館。5月7日は休館。

鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。