23時38分。最終の上り新幹線「のぞみ64号」東京行きが発車した後の東海道新幹線の品川駅は、昼間の雑踏とは裏腹に静寂な空間と化していた。そんな駅の中に歩を進めると、新大阪方面のプラットホームには230人ものJR東海社員が集結していた。この日、大規模災害や不足の事態に備えて行われる「訓練」に参加する面々の真剣な眼差しが、そこにあった。旅客の安全を確保する訓練がどのように行われるのか。深夜の東海道新幹線の裏側に密着取材した。
文:工藤直通/写真:工藤直通、JR東海
非常事態を想定した大規模な訓練の内容とは?
近年、線状降水帯の発生による豪雨災害による運転見合わせや、列車内で起こった殺傷事件などで、鉄道の安全輸送を意識する人々が多くなったのも事実であろう。「旅客の安全は輸送の使命である。」この言葉は、鉄道会社にとっては基本中の基本と言われる。こうした日頃の鍛錬と安全意識を社員一人ひとりに再認識・再確認させる行事が、この「異常時対応訓練」である。
訓練は二つのテーマで実施された。「特殊収容訓練」と「火災発生時の旅客避難誘導訓練」であった。こうした異常時対応訓練は毎年行われているが、今回は初めての訓練項目として「固定柵(ホームドア)」のある駅や、「末端の車両で不測の事態」が起こったことを想定するなど、昨今の事件・事故を意識した、より現実的な訓練として実施された。
駅間で停止した新幹線を駅ホームに誘導するためには?
「雨量が規制値に達したため、列車の運転を見合わせます」。こんな案内放送を耳にしたことがある読者もいることだろう。駅に停車中の出来事ならともかく、駅と駅との間で止まってしまった時には不安とともに軟禁状態に置かれるわけだから、たまったものではない。そうしたケースに対応するものが「特殊収容訓練」なのである。
この訓練は簡単に言うと、同一ホームに2つの列車を停車させるというもので、そうすることで二つの列車の乗客を同一駅に避難させることができるといった利点がある。とはいえ、そもそも東海道新幹線は一つの列車が16両もの長さで、2編成分ともなれば32両にもなる。新幹線車両は1両が約25mなので、16両編成では400mになる。
東海道新幹線のホームは、1編成分(16両)の長さしか備えていない。このため、双方の列車を仲良くホームに停車させるための「特殊な停車方法」として、この訓練が行われたのであった。
列車同士の衝突や追突は、絶対にあってはならない。こうしたミスを防ぐため、列車運行プログラムとバックアップシステムにより、厳密に運行管理が行われているのが鉄道である。一部の鉄道においては、今回の訓練のように「列車同士が接近」するということ自体は、決して珍しいことではない。途中駅で列車の増結などを行なう場合には、日常的に行われているからだ。しかし、東海道新幹線の場合には、絶対に起きてはならない事態なのである。
安全運行システムをOFFにしてJR東海職員の手信号でホームに誘導
列車の運行システムでよく聞く用語に「ATC(自動列車制御装置)」というものがある。東海道新幹線も、このシステムによって日々運行されているが、今回の訓練では、運転士と品川駅、指令所の8名の社員が連携し、その手順を確認しながら車両側の安全装置(ATC)を一時的にOFFにして車両を誘導し、同一ホームへ異なる列車を入線させたのであった。この一連の動作を確認する訓練が「特殊収容訓練」なのである。僅か15分という、あっという間の出来事であった。
東海道新幹線の場合、列車同士の安全を確保するための接近距離として、新幹線車両約2両分(50m程度)を開けて停車させている。
走行中の新幹線車内で火災発生! その時、どこへ避難する?
不燃・難燃製といわれる東海道新幹線の車内で火災が発生した。そんな想定で行われた訓練だ。もちろん乗客が持ち込んだ手土産や雑誌、駅弁の空き箱など可燃物がまったくないとは言えないのも事実だ。ましてや、2号車や15号車といった編成末端の車両で不測の事態ともなれば。パニックになるのは必然だろう。今回の訓練では、2号車の3号車寄りで火災が発生したことを想定して111名の社員が参加して行われた。その中には女性社員の姿も見られた。
2号車の避難先は先頭車である1号車であり、その先に逃げ場はない。あまりにもリアルな想定に、訓練ということを忘れてしまうほどの恐怖感を味わったのは言うまでもない。
訓練想定はこうであった。「品川駅~新横浜駅を走行中の新幹線車内で、2号車に乗車中の不審者が急に暴れ出し、液体燃料の入った小型のポリタンクを振りかざし、自身に浴びせて火を放つ異常事態が発生した」という1時間のシナリオで始まった。犯人は、もちろんJRの社員扮する配役だが、その迫力は本物と見間違うほどであった。
原則は2両離れた車両への避難だが
訓練では、犯人が火をつけた位置を2号車の車内でも3号車寄りの座席と想定したため、後方16号車に向かって編成が伸びる3号車方向へ避難することができないという最悪のシナリオとなった。つまり、逆方向に避難するには先頭車両の1号車しかないのだ。
「1号車へ急げ!」と叫びながら逃げ惑う乗客は、日ごろから訓練を重ねている社員である。ある意味、見ていて安心感を持ったのは訓練ゆえの甘えなのだろうが、一斉に席を立つ乗客役の姿を見ると、もしこれが営業運転中の車内だったなら、本当に逃げ出すことは可能なのか?と、感じたほどだ。
避難した1号車では、運転士による乗客に対する「パニックコントロール」が行われた。これは、航空会社の指導・訓練を取り入れたものだそうだ。
東海道新幹線には、火災が起きたら2両離れて避難するという独自ルールがある。なぜ2両なのか。新幹線車両は1両が25mの長さである。山手線といった一般的な通勤電車の長さが20mなので、それよりも新幹線は長い。結果、2両分の50m避難すれば、火災がここまで燃え広がることは考えにくく、それ以上延焼することはないため安全が確保できるというのがJR東海の考えである。
停止した新幹線車両からの避難脱出は専用梯子を使う
火災の発生を知らせる非常ボタンが押されると、運転士は非常ブレーキをかけて直ちに列車を停止させ、車掌は放送で避難を呼びかけると同時に避難を必要としない車両の乗客にはパニックにならないように配慮した案内放送が行われた。実際に事が起きれば、野次馬に扮する者や、勝手に動き出す者、逃げ出す者など、収拾がつかないことになるかも知れない。
列車が停止すると運転士はデッキ部にあるドアを非常コックによって開け放ち、自ら「脱出梯子」の取付を行なった。そして順次、1号車に避難した乗客を車外へと誘導した。この脱出梯子は、梯子といっても階段状の形をしており、さほど降りることに不自由はなさそうだが、そこからは近隣の駅まで線路上を歩いて避難しなくてはならず、訓練とはいえ避難の大変さという現実を見せつけられた感もあった。
訓練は必要だが、実際には活かされないことが最良だ
訓練の指揮を統括した近藤雅文、執行役員・運輸営業部長は、取材終了後の会見で「今回は初めて可動柵のある駅(今後全駅に設置予定)での訓練を実施し、ドアの位置が合わない場所での乗客誘導や、ドアと可動柵の開閉タイミングの問題点はあった。火災実車訓練は過去にも実施しているが、こうした実践的訓練によって安心してご利用していただけるよう、(引き続き)訓練を積み重ねていきたい」と語り、東海道新幹線は乗客の安全を置き去りにしないという意思を示された。
避難方法ひとつとっても、もし山間部や長距離移動を伴う駅間における不測の事態だったことを思うと、避難そのものを躊躇してしまう乗客もいるのではないだろうか。健常者ばかりが世の中ではないことや、帰省シーズンなど繁忙期の車内混雑を想像すると切りが無く、訓練内容はどこかで線引きをする必要があるのも事実だろう。
日々の鍛錬が礎となり、旅客の安全が守られていることを肌で感じた今回の訓練。日ごろから「乗客の命を守る」という使命感に満ちたJR東海社員の姿には頼もしさを感じた。
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