自称「ナニワの海コンお姉さん」のゆでさんですが、もちろん彼女にも若くて初々しい時代がありました。

 そんな時代のゆでさんの運転手デビューのエピソードは、今では考えられないくらいナイーブなもの。ウーム、人間って成長するんですな、いろいろと。

文/海コンドライバーゆでさん
写真/トラックマガジン「フルロード」編集部
*2013年12月発行「フルロード」第11号より

運転手デビューはプレッシャーとの戦い

UDのトラックを運転しているから「ゆで」

 私のトラックデビューは2トン車が始まりでした。その2トン車の運転手として雇ってもらえるまで、半年ほどずっと就活していましたので、雇ってもらえることが決まった時はそりゃもう飛び上るほど嬉しかったです。

 男の人と一緒に仕事をするんだから「絶対に手伝ってもらうようなことがないように頑張る!」。意気揚々とハンドルを握っていました。せっかく運転手になれたのだから「やっぱり女はアカンな」と言われたくなくて、「重い」「怖い」「できない」の言葉は絶対に言わない! そう決めて仕事をしていました。

 実際はそんなに重い荷物もなく、荷扱いもリフトが中心で、シートも小さかったので、体力的には問題はなかったのですが、そんな時代だったのでしょう、中には「女のくせに」と言う人もいたり、親切なのか嫌味なのか「事務員のほうが向いてるんちゃうの?」と言ってくる人もいたりしました。

 「事務員やっていたんですけどね、そっちのほうが向いてなかったんですよ」と軽くかわしていたものの、心の中では「イチイチうるさいねん!」と腹立たしく思っていたことを思い出します。

 もちろん、私を理解してくれる人もいましたが、心にのしかかるのは嫌味のほうの言葉で、いつしか私の中で「失敗しない! というワードが一つ増えました。

 デビューしたての頃は、常に神経を張っている状態だったと思います。今でもとっても繊細なんですが(笑)、若い乙女の頃の私のハートはガラス細工のようにデリケート。自分に課したプレッシャーに押しつぶされて、とうとう胃痙攣をおこしました(汗)。

 その痛みは明け方から始まって、胃薬を飲んでも効き目がなく、痛みからくる汗と吐き気で、荷降ろしにきた工場でロープを外すこともできずに、トラックの陰に隠れてうずくまってしまいました。「誰にも見られませんように」と隠れていたんですが、その祈りもむなしく、リフトマンに見つかってしまいました(涙)。

 幸い、そのリフトマンはいつも仲良くしてくれている人で、「チョット胃が痛かってん。大丈夫やで」と言ったものの、たぶん顔面蒼白で汗が滴っているのを見たんでしょうね、「先に降ろして空パレット積んだるわ。早よ帰って横になり」と、いつもより最速で積み降ろしをやってくれました(汗)。

 心配してくれて、サッと積み降ろしをやってくれたんですが、その出来事は「あ~、甘えてしまったな」と後々までずっと記憶に残ることになりました。振り返ってみれば「どんだけ意地を張っていたんだ!」と思いますが、その頃の私はさぞかし生意気だっただろうなって、今となっては笑ってしまうんですけどね。

 その後、会社を変わって4トン車に乗った時も同様に常に自分にプレッシャーを課していましたので、やっぱり胃痙攣の痛みを味わうことになります。そう、優柔不断なくせに、自分の決めたことは死守するタイプです……、たぶん。

2トン車から4トン車へステップアップしたものの……

 2トン車から4トン車に乗るようになり、走る距離も荷物もさまざまに変わり、ドライバー履歴の中で一番ハードだった頃のことです。

 関西~富山を行ったり来たりのコースで、おまけに高速は厳禁という会社でした。毎日ベタで6~10時間走り、それに加えて「プラス・マイナス」(積み・降ろしのこと)という内容でした。当然のように睡眠不足となり、それがたたって人生で二度目の胃痙攣が発症しました。

 その日は大阪出発の福井マイナス、滑川プラスで、大阪に戻るという仕事内容でした。いつもに比べてまったりのコースです。というのも、病気で入院していた先輩が復帰するにあたり、体を馴らすために私の横乗りでツーマンという話になっていたからです。

 本当なら、後輩である私から「無理せんといて下さいね」と優しい言葉の一つもかけてあげるべきシーンなんですが、顔面蒼白でしょ、痛さで顔も歪んじゃってる状態でしょ、逆に心配されて「運転代わるわ」と言われる始末でした(汗)。

 もう痛みと寝不足とで限界だったんですね。プライドや意地があったって胃の激痛には勝てません。素直に「すいません。京都の観月橋あたりまでお願いします」と助手席で少し仮眠させてもらうことにしました。

 交代した場所から観月橋まで1時間チョイ。少し寝かせてもらったらきっと薬も効いてくるはず! そう思いながら助手席で意識不明になり、目が覚めた時には福井に現着していたんですけどね(汗)。

 驚いたのと恥ずかしいのとで、「なんで起こしてくれへんかったんですか~?」とか「スイマセン、スイマセン!」とか、ワアワア言っている私に、「人間誰かて体調悪い時はあるんや! 頑張りすぎて入院になったらどないすんねん。お母ちゃん泣くで!」

 そうでした。子供の時からケガばかりしていたので、ケガをしないように心がけていたものの、健康管理はできていませんでした。

先輩運転手の言葉に、ゆで感激!

今では海コンドライバーとしてもベテランになりました

 「俺ら運転手は身体が資本や! しんどい時は助け合ったらええやないか」「アンタも俺が休んでる間、このコース走ってくれてたんやろ? お互いさんや」と言ってくれた。

 その言葉が嬉しくてね。優しい言葉をかけてくれたのも嬉しかったんですが、「俺ら……」と言って、その言葉に「私も仲間に入ってる」ってことが何よりも嬉しくてね。何度も何度も心の中で「俺ら運転手は……」って言葉の意味を確認していました。

 大阪から福井現着まで寝かせて頂いたのと、その言葉のおかげで胃痙攣の痛みもいつのまにかどこかに飛んでいってしまい、その後はいつもよりうんと頑張ってる自分がいました。

 福井で荷降ろしを完了した後、富山県滑川で積み込みをし、途中でオムライスなんかを食べて大阪まで軽やかに戻ってこられました。もちろん福井からは先輩に運転してもらうことはありません。大阪に無事に戻り、先輩に「福井まで運転代わって頂いてありがとうございました」と頭を下げて帰りました。

 次の日、私は京都の現場降ろしで、先輩はまた北陸向けの便に同乗することになっていたので、ツーマンはその日一日で終了しました。

 後日、無事に復帰された先輩と、とある配達先で一緒になった時「自分あの時すごいイビキやったなぁ」と、思い出したように笑われました。「あんだけ痛がっていたのに、すぐ寝れるってどないやねん」とまた笑われました。しかも地声が大きな先輩のおかげで、近くにいた他社のドライバーにも聞こえたようです。

 その声がもう少し小さかったら、私はいつまでも「優しい先輩」と敬意を表していたでしょう。

オムライスの姉ちゃんって、なんやねんソレ

 ま、それがきっかけで、近くにいた他社のドライバーさんとも話をするようになったんで、ありがたいといえばありがいんですが、なぜか他社のドライバーさんに「オムライスの姉ちゃん」と呼ばれることになりました。なんでそう呼ばれるようになったのかは今も謎のまま。

 以前にも少し書いたと思うのですが、当時の運送業界はパワハラとセクハラが横行する環境でした。「男性ドライバーを見たら敵と思え!」ってな感じでして、ずいぶんと生意気&無愛想な自分だったように思います。

 いろんなことで悔しくて泣くこともありましたが、続けてこられたのは、トラックが好きでたまらないって気持ちと、わずかながらいた理解者のおかげなんだと、これを書きながら感謝の気持ちがフツフツと込み上げてきます。

 パワハラ大王だった人たちの言動も「お前らに負けてたまるかい!」と、逆に原動力になっていたのかもしれません。なので、少し根に持ちながら感謝しておきます。名前は思い出せないんですが、当時元気を頂いた人達の顏は今でも覚えています。元気でいるかなぁ?

 そう言えば、先ほどの一度だけ福井までツーマンした先輩の顏だけは思い出せません。記憶にあるのは坊主頭に巻かれた包帯だけです。なんの病気で入院していたんだろ(汗)。もしかしたら大きな病気だったんじゃなかったかな~。

 パワハラ大王の顔は思い出せても、お世話になった先輩の顔を思い出せないなんて、申し訳ないですね。恩はすぐに忘れるけど、嫌なことは根に持つタイプなのかな……。ふふっ、それもいいやん、覚悟しときや。

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