バブル景気に沸いた80年代後期。トラック業界は物流需要の増大により、トラックが飛ぶように売れ、今とはニュアンスが異なるドライバー不足も深刻化していた。
そんな空前の好景気とともに始まった平成(1989〜2019年)だが、平成3年になるとバブル経済が崩壊。以後、日本は長期にわたる経済の停滞・低成長期に没入していき、平成31年にその30年の歴史に幕を下ろした。
今、時代は令和へ変遷したが、あらためて平成という時代はトラック業界にどのような変化をもたらしたのか? 同時代のほとんどをトラックドライバーの視点で過ごしたトラックジャーナリスト長野潤一が、平成のトラック輸送の歴史を振り返る。
文/長野潤一、写真/長野潤一、トラックマガジン「フルロード」編集部
*2019年6月発売「フルロード」第33号より
宅配便の発明
平成4年にサラリーマンを辞めて、大型免許を取りトラックドライバーになった。最初は10tで宅配便の路線便ドライバー。その後、2t、4t、トレーラにも乗った。
最初は宅配便の路線便ドライバーになった。路線便というのは、集配トラックが昼間に集めた荷物を、夜中の間に別のターミナル(営業所)に運ぶという仕事だ。
平成4年当時、バブルはすでに崩壊し始めていたが、宅配便はそれにもかかわらず成長を続けていた。取り扱い個数は平成元年で10.3億個。5年間で2.7倍という急成長ぶりだ。
路線ドライバーの求人募集も多く、地場で月給40万円、長距離で50万円以上と相場もよかった。当時、まだ20代だったので、その若さで50万の高給は魅力的だった。それに、クルマやバイクで日本全国に行くことにも興味があったので長年続けられたのだろう。
宅配便というシステムは、昭和の時代にヤマト運輸が始めたと言われる。それまでも郵便小包はあったが、時間がかかっていた。また、国鉄の駅にある日通に荷物を持ち込み、指定の駅まで運んでもらえる「チッキ」という制度があったが、荷物の持ち込み・引き取りは自分で行く必要があったので、ドアtoドアではなかった。
平成初期の段階では、ヤマト、佐川、福山、西濃などがすでに全国展開。後2社は企業向けの比較的重量の重い荷物も扱った。また、日通(ペリカン便)、フットワーク、その他の特積(特別積み合わせ)のトラックもよく走っていた。
路線トラックの車両は、前2軸の高床が多かったが、ファッション関係の嵩物が多い佐川急便は荷室容積が取れる低床四軸車を採用し始めた。
当時、まだ前輪だけタイヤが大きい異径ホイールだったが、これが現在一般貨物で最もポピュラーな低床四軸ウイング車の普及につながったのではないだろうか。
宅配便システムは、大きな物流ターミナルの積み込み側のプラットホーム(トラックドック)に行先の異なる大型トラックを何十台も着けておき、反対の降ろし側のホームでは集配トラックや他店舗からの横持ちトラックが荷物をベルトコンベヤに流し、荷物を仕分けしてゆくシステム(宅配会社によりシステムは若干異なる)。
以前は人による仕分けも多かったが、現在では機械読み取りによる行先の自動仕分けが増えた。ドライバーは積降ろし時に全ての荷物にある配送伝票のバーコードを専用端末でスキャンするので、平成初期でも全ての荷物の所在追跡が可能だった(現在のように、スマホでの確認サービスは無かったが)。
全国どこへでも荷物が翌日着く(遠隔地は翌々日)サービスは、いわば社会インフラのような役割を持つようになった。クール便で生鮮品も送れるようになった。
インターネットとスマートフォンの普及で、いまや誰もが手軽にネット通販を利用し、買い物のスタイルも変わった。平成29年の宅配便の取扱個数は42.5億個。平成初期の4倍にも増えた。
オフィスや企業向けの利用(BtoB)も増えている。こんなにも便利なネット通販が可能になっている背景には、昭和末期からの宅配便システムの確立という土台がある。
路線便輸送は、その他の一般貨物(チャーター)、コンテナ輸送などと並ぶトラック便のひとつの形態であるが、平成という時代の特徴的な輸送形態であった。
労働環境は良くなったのか?
「持ち込み」という制度が平成初期にはまだあった。見た目は営業(緑)ナンバーが着いていてトラックの名義は会社になっているが、実際は1台のトラック(2000万円以上)を個人で買ったのと同じで、会社に月賦で支払う。収入は売上(運賃)の一定パーセンテージで、燃料代・高速代・修理代なども自分で支払う。
クルマは自分専用の担当車なので、改造もある程度OK。走れば走るほど売り上げが上がるから、24時間働く人もいた。白ナンバーではないが、映画「トラック野郎」の個人営業にもやや近い形態だ。
いわば、個人事業主のようなものだが、厳密にいえば労働基準法にも引っかかるのだろう。しかし、当時は労働基準法も今のように厳しくはなかった。
「1人1車」か「乗り回し」かという話になるが、双方にメリット・デメリットはある。会社としても車は休ませたくないから、今のような休みをしっかり取る勤務体制では「乗り回し」を採用する会社も多い。
実際、通常の社員だった私も、東京〜高松を週3往復走っていたこともある。積込みに7時間、運転が10時間、睡眠は5時間程度でまた帰ってくるのだから、危ないことこの上ない。
そのころ、平成2年の小泉規制緩和の影響で、運送会社が徐々に増え始めていた。そして、過当競争から運賃のダンピングが始まり、運賃相場は平成20年代まで低迷した。
現在は人手不足で運賃がやや上がったとはいえ、まだ低い水準にとどまっているのは、そのころの名残であろう。
連続で長時間働かせるブラック企業も多かった。当時、スピードリミッターがまだなく、大型トラックでも120km/h以上出たことから、重大事故も多かった。
平成15年に90km/hのリミッターが導入される。速度が遅くなることで労働時間は増えたが、私は現在の方が良いと思っている。
25トンもの物体が120km/hで事故を起こせば破壊力が大き過ぎる。それにドライバー自身が一番危険である。
現在は、デジタコの導入や労働基準法が強化され、430休憩や拘束13時間、8時間のインターバルなどが徹底されるようになった。
しかし、実際はパーキングエリアがどこも満車でたらいまわしにされたり、加減速レーンでの駐車など、問題はいつになっても尽きない。また、近代的な物流倉庫ができ、IT社会になったとはいえ、積み込み・積み降ろしの待ち時間の問題もほとんど解決されていない。
トラックと環境問題
平成初期には4トン車ごと鉄道に積む「ピギーバック」など、モーダルシフトの方策がしきりに考えられていた。モーダルシフトとは、輸送を別のモード(鉄道、船舶など)に転換すること。
比較的新しく開通した新名神や新東名は、片側2車線(現在3車線化が進められている)でショボく造られているが、当初は中央車線に貨物専用鉄道を通す構想まであった。
かつてのトラックは、マフラーから黒煙を吐き、「環境に悪いもの」というイメージが大きかった。排気ガスからは粒子状物質や窒素酸化物が出ており、工場からの排出ガスとも相まって、環八雲(かんぱちぐも)や光化学スモッグを引き起こした。
平成11年、当時の石原都知事がペットボトルに入れた黒鉛を振りかざして見せ、国に先駆けディーゼル規制に取り組んだ。
その結果、新長期規制、ポスト新長期規制などの排ガス規制を経て、トラックの排出ガス浄化技術は進んだ。この流れは欧米でも同様で、それぞれに排ガス規制の段階的強化がある。
平成23年の東日本大震災による原発停止の後は、二酸化炭素排出や地球温暖化問題に対し社会の関心が低くなったように思う。
しかし、排ガスがキレイになっても、トラックが二酸化炭素を出していることは事実。たとえトラックがEV化されたとしても、発電段階において二酸化炭素が発生していることに変わりはない。
モーダルシフトは路線便の鉄道コンテナ利用や大手メーカーのトレーラ・フェリー利用で幾分かは進んだが、いまだ主流はトラックである。
平成という時代は、昭和に出現したトラック輸送を、高速道路の延伸や排ガス浄化で踏襲したかたちをとった。
政治主導で何か新しい物流システムを造ったわけではない。令和時代には自動運転技術がでてくるかもしれないが、ライフスタイルの変更や二酸化炭素の削減も、持続可能な社会のために考えなければならない。
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