古くから葉たばこの産地として知られていた神奈川県の秦野市は、葉たばこ耕作で栄え発展してきた歴史がある。これは秦野が葉たばこ耕作に適した土地であったからではない。
宝永4年の富士山大噴火によって秦野の耕地に火山灰が降り積もり、大地をやせ細った土地に一変させてしまった。しかし、こうした土地でも葉たばこの耕作は可能であったことから盛んに葉たばこ耕作が行われるようになり、秦野は葉たばこの一大産地となったのである。
(記事の内容は、2023年7月現在のものです)
執筆・写真(特記以外)/諸井 泉
※2023年7月発売《バスマガジンvol.120》『あのころのバスに会いに行く』より
■100年の歴史を持つ「けいべん」は今も人々の心に生き続ける
東海道線に二宮駅が開業して4年後の明治39年に、この葉たばこの輸送を主目的に二宮から秦野までの湘南馬車鉄道が敷設された。便数は1日11往復で、時速10kmで1時間かけて運行されたという。
馬車鉄道は一頭の馬が小さな客車または貨車を引くもので、葉たばこや落花生等の貨物輸送や大山詣客等の旅客輸送も行われたという。需要も多かったので明治45年には動力を馬から蒸気機関車に替え、社名も湘南軽便鉄道として運転を開始した。
当時の沿線は茅葺屋根の民家が多く火の粉の飛散を防ぐため、独自に開発したラッキョウ型の煙突を付けた蒸気機関車が客車や貨車をけん引したという。
二宮駅からの乗客は大山への参詣客が多く、シーズン中には駅は活気にあふれ、貨物ホームには葉たばこや落花生、雑穀、肥料などがうず高く積まれ、物流の活性化にも大きく役立っていた。
秦野で最初に乗合自動車が創立されたのは1911(明治44)年の相陽自動車合名会社であった。しかし、道路の不整備や運転技術が未熟であったために、客を乗せた自動車がカーブを曲がれずに畑の中を走ったり、河原に下りてしまったりした。そのため乗客が減り続けわずか1年ほどで廃業となった。
その後、1920(大正9)年秦野自動車商会が設立され、1921(大正10)年には乗合自動車の秦野自動車(現神奈川中央交通西秦野営業所)が運行を開始した。路線は、秦野~平塚、秦野~二宮、秦野~菩堤(田原経由)、秦野~蓑毛、秦野~比奈窪であった。
この秦野自動車は1942(昭和17)年2月に東海道乗合自動車と合併、1944(昭和19)年6月には神奈川中央乗合自動車発足に伴い、同社秦野営業所となり、1951(昭和26)年6月には社名変更に伴い神奈川中央交通秦野営業所として現在につながっている。
秦野自動車が営業を開始した秦野~二宮間では、軽便が1時間もかかる距離を25分で運行したため、軽便の利用客が減少した。さらに1923(大正12)年の関東大震災によって軌道に損害を受け、1927(昭和2)年には小田急小田原線が開通するなど様々な理由から昭和8年4月に旅客輸送を休止する。
貨物輸送だけは続けられていたが、1937(昭和12)年8月に廃業申請がだされ湘南軽便鉄道は姿を消したのであった。
神奈川県秦野市曽屋に位置する神奈川中央交通西秦野営業所は、神奈川県波多野市・中井町を走る路線を管轄しており、一部は平塚市・大磯町・二宮町・小田原市にも乗り入れている。
この軽便鉄道の路線跡は現在の県道17号線(旧道)の道路に転用され、ところどころに「軽便みち」という石碑が立てられ写真入りの案内板もあって当時の様子を知ることができる。
明治・大正・昭和の時代を走り抜けた「けいべん」の歴史は100年の時を経て、今も人々の胸の中に生き続けている。この道は現在は神奈川中央交通のバス路線となっているが、この道を走る路線バスの姿は、当時勇壮に走っていた「けいべん」に思いをはせることができ感慨深い。
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