1300人以上が犠牲となった高松空襲から2024年7月4日で79年。当時14歳で空襲に遭い、現在、語り部として活動する女性が高松市にいます。緊迫した世界情勢が続く中、伝えたい思いがありました。

(高松空襲の語り部 戸祭恭子さん)
「あちこちで死体が散らばり穴が開いている。お日さまは黒くしか見えず、黒い太陽が上がったと思った」

高松市に住む戸祭恭子さん(93)。当時14歳で高松空襲に遭い、その記憶を後世に伝える語り部として活動しています。

1945年7月4日未明。アメリカ軍によって高松市に落とされた「焼夷弾」は、わずか106分で市街地の約8割を焼き、1359人の命を奪いました。辺りは火の海に包まれ、り災者は当時の人口の6割以上に当たる8万6400人に上りました。

家族6人で逃げ出した戸祭さんは、生き延びることに精一杯だったと振り返ります。

(戸祭恭子さん)
「こんな所で死にたくないという思いがいっぱいで、何を踏んだのかと思ったら死体を踏んでいる。それが怖いとか気色悪いという気持ちが起こらない。それを後で考えたら、あの時には喜怒哀楽がなかった。喜怒哀楽がなくなるのが戦争。それが怖かった」

感情を欠落させてしまう戦争。戸祭さんは、ここ最近の世界情勢を見て、同じ怖さを感じています。

(戸祭恭子さん)
「ガザなどで殺し合いをしているのをテレビで見て、殺すことや殺されることに無感覚になっている。若い人や大人が。それが怖いと思う」

79年前と同じことを繰り返してほしくない。戦争の悲惨さを知る戸祭さんが今を生きる私たちに伝えたい思いです。

(戸祭恭子さん)
「世界中が戦争のない国になってほしい。何年経ってでもいいから」

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