子供にはできる限り“体験”をさせてあげたい。そう思って職業体験テーマパークにつれていく親もいるのではないだろうか。

シングルファザーの浄土宗・龍岸寺住職 池口龍法さんも、子供に“体験”をさせたいと考える1人。

しかし職業柄、リアリティのある体験をさせると冷や汗をかくような場面もあるという。池口さんの著書『住職はシングルファザー』から一部抜粋・再編集して紹介する。

“ロープレ”と仏教のシンクロ

よその家庭でも、「テストで100点取れたらご褒美」とか「お手伝いしてくれたらご褒美」という具合に、ニンジンをぶら下げて努力を促しているという話はよく聞く。しかし、うちほどご褒美までの道のりが険しいところは珍しいのではないか。

1回あたり15分の読経でも、100回となると25時間を要する。しかも、途中で脱落したら1円ももらえない。幼稚園から小学校にあがったばかりの子のキャパシティを明らかに超えたチャレンジである。

裏を返せば、大人がだれか常にそばにいないと成立しない。子供は全部自力で頑張ったつもりだが、むしろ努力しているのは私だとひそかに胸を張りたくなる。

それでも、百マスチャレンジというゲームを好んでプレイしてしまうのはなぜかというと、たぶん私が「ロープレ(ロールプレイングゲーム)」のシステムに親しんで育った世代だからである。

私が子供の頃に初めてプレイしたロープレは、ファミコンソフトの「ドラゴンクエスト3」だった。ロープレの主人公は、冒険のはじめはレベル1で戦闘力も弱い。助けてくれる仲間もいない。

でも、敵と戦ってちまちま経験値を積んでいくうちにレベルアップして着実に強くなる。旅を続けていくと、仲間も頼もしく成長していく。やがてはラスボスの魔王さえ倒せるようになる。

このロープレのシステムは案外、仏教が語ってきた物語にシンクロする。

29歳の時に出家したお釈迦さまは、6年間の修行生活の最後に悪魔マーラとの戦いに打ち克ち、さとりを開いたとされる。悪魔マーラというのは、自分の心のなかの煩悩をあらわしたものに他ならない。

シングルファザーの育児に追われている私は、疲れている時など悪魔マーラにそそのかされて心は乱れっぱなしであるが、もし打ち克って自分らしくと思うなら生涯かけてメンタルを鍛えるしかない。

ロープレ同様、人生も経験値稼ぎをした時間はきっと裏切らない。努力を続けていれば、小さな誘惑には負けない人間に変われるはずである。

そんなわけで、ロープレと仏教から示唆を受けるゆえに、私は子供たちに辛抱強く努力させているが、あまりに忍耐を求めるのは時代の流れに逆行すると感じる時もある。

飽くなきチャレンジを続ける忍耐

私が小学生の頃は、忘れ物をしたら怒られた。鉛筆の持ち方も食事のマナーも厳しく指導された。態度が悪ければ、先生から鉄拳が飛ぶのもしょっちゅうだった。しかし、私の子供2人は、忘れ物をしても怒られないし、鉛筆の持ち方も食事のマナーも習ってこない。先生から殴られることもない。なんともヌルいなぁと思う。

もちろん、私は今さら体罰を推奨したいわけではない。

お釈迦さまは、修行生活のあいだに断食行など厳しい苦行を経験したが、自分の身を痛めつけて自己満足を味わっても意味がないと気づき、苦行をあきらめたという。そして、乳がゆを飲んで英気を養い、HP(ヒットポイント)をマックスにまで回復させて、ついに悪魔マーラとの最後の決戦に挑んだ。

だから、仏教的にも体罰に価値は見出しにくいが、目標に向かって飽くことなきチャレンジを続ける忍耐は、推奨されるところだろう。

私の子供たちも、レベルが上がって「新しいお経を覚えた」などのスキルアップを繰り返していけば、正しい努力は自分を裏切らないことを身に染みて覚えるだろう。その手ごたえが心に残れば、大きくなった時にためらいなく新しい世界への扉を開き、努力の末にさらにレベルアップを果たすだろう。

私は、ロープレと仏教から学んだそのような感覚を、子育てのなかに活かしたいと思っている。

テーマパークより贅沢な職業体験

職業体験といえば、ちびっこ僧侶としてデビューする2年前に、職業体験テーマパーク「キッザニア」に連れて行ったことがある。

キッザニアでは、ゲートを入った先のパビリオンで、パン屋さんやパイロットなど、憧れの大人の姿になり切ってお仕事を体験することができる。職業の数は約百種類も用意されている。お仕事をしたら専用通貨「キッゾ」で給料が支払われ、貯めるとキッザニア内のお店で商品が買える。遊びながら社会の仕組みが学べるテーマパークになっている。

職業体験は子供も楽しめる(イメージ)
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私の子供たちも、電車の運転士の格好をしてハンドルを握ってみたり、消防士になって放水してみたり、舞台俳優になってみたりと、日頃知ることのない大人の世界を少しだけ垣間見られて大興奮の時間だったらしい。「また行きたい」と何度もせがまれた。

ただ、いささか虚しさを覚えなくもない。あくまでその日かぎりのバーチャルな体験だからである。帰宅してしまえば思い出以外には何も残らない。

それに比べ、住職の長男が檀家参りするという職業体験はリアリティのレベルがまったく違う。檀家さんからの期待が高まれば、かつての私のようにストレスを感じて「俺の人生を勝手に決められてたまるか」と反抗したくなる時もあるだろうが、そこまでを含めて、まっとうな職業体験といえるのではないか。

そんな風に書くと、批判の声が飛んできそうである。「お寺の子供にしかできない贅沢な時間の過ごし方であって、日本の大半を占めるサラリーマン家庭には不可能である」と。だからこそ、「職業体験テーマパークが流行るのだ」と。

しかし、私だって、気楽に子供連れで読経にでかけているわけではない。まだ6歳の未就学児のリアル職業体験を成功させるには、相当に気苦労が絶えない。

「何まん?肉まん?豚まん?」

最初の頃は「ここなら少々のやんちゃも許してくれるだろう」とシミュレーションを重ねて臨んだ。

読経が無事に終わっても、道中のトイレの心配もある。ご年配の男性ひとり暮らしだと、トイレを借りにくかったりもするから、お寺を出る前に最後の一滴まで絞り出しておくように命じるなど、細心の注意も払った。それでも「我慢できない」という事故もあった。

仏壇のなかのお菓子や果物が、ご本尊やご先祖のためのお供え物だということもわからないから、「あ、みかん、大好き!」などと口走ってしまう。想像の斜め上をいく発言に私は血の気が引く。檀家さんは「坊ちゃん、全部持って帰って!」と気を利かせてくれるが、私としては申し訳なくてたまらない。

お布施をいただく時の神妙な空気も、子供には伝わらない。

読経してお茶をいただいたら、「ありがとうございました」というお礼の言葉とともに白い封筒が差し出される。それを私が「檀波羅蜜具足円満(だんはらみつぐそくえんまん)(お布施の功徳が満ちあふれますように)」と唱えながら恭しく受け取る。

檀家参りの中では読経の時と並んで、空気がピリッと引き締まるはずの瞬間なのだが、息子は私がムニャムニャ唱えた言葉でふと閃いたらしい。

「えんまん」という最後だけを聞き取って、「え?何まん?肉まん?豚まん?」と即座に合いの手を入れる。引き締まった空気がゆるむ。檀家さんは「可愛いわねぇ」という温かいまなざしを送ってくれても、私は内心カッとなっている。

玄関を出て2人きりになったら「あのタイミングで肉まんは明らかに関係ないでしょ」「封筒に肉まん入ってるとでも思ったの?」とたしなめたが、私が「肉まん」を連呼するあまり、息子にはかえって「肉まん経」としてインプットされてしまったらしい。私がお布施を受け取るのをニコニコしながら見るようになった。

冷や冷やする出来事がいくら続いても、私は子供を連れて読経に出かけて行った。

そうするようになった発端は、インフルエンザによる休園だったが、幼稚園が再開されて以降もまったくやめようと思わなかった。幼稚園や小学校の教室のなかからは見えない世界を見せてやれば、子供にとって大きな刺激になるだろうと信じたからである。

『住職はシングルファザー』(新潮新書)

池口龍法
僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。二児の父。1980(昭和55)年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』など。

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